■ 沿革
浪岡城は南朝方の北畠顕家の子孫の居城である。
−名門 北畠氏−
正慶2年(元弘3・1333)、北畠顕家が陸奥守に任せられ、義良親王を奉じて多賀国府に入部して東北の経営に当たった。その際、浪岡右兵衛大夫秀種の娘が顕家に仕え顕成を産んだが、顕家の戦死後に北畠氏の勢力が弱まったため、三戸南部氏の庇護の下で稗貫・船越に住んだ。しかし三戸南部氏が南朝支持から北朝支持に変わり、浪岡に移ったものと思われる。
その時期は建徳年間(1370〜71)の守親入部説、文中年間(1372〜74)の顕成入部説、元中年間(1384〜1392)の親統入部説、応永年間(1394〜1427)の顕実説、戦国時代の大永年間(1521〜27)に天龍丸が入部したとする説まであり、明確ではない。
−北畠氏の下向−
浪岡に入部した北畠氏は当初から浪岡城に入城したわけではなく、初めは浪岡城近くの源常館に入り、その後浪岡城に移った。その時の当主は北畠顕義といわれる。
浪岡において北畠氏は「浪岡御所」と呼ばれ、天正年間(1573〜92)まで力を持ち続けた。戦国時代に入り、北畠氏は大光寺氏・大浦氏らの勢力と津軽地方を三分しており、その中でも北畠氏は当初、三者の中で最も優位にあった。
−浪岡北畠氏の没落−
永禄5年(1562)、「川原御所の乱」が起きた。川原館主である北畠具信が浪岡城主・北畠具運を殺害したのである。
直ちに浪岡側である具運の弟・顕範は川原館を攻撃した。これにより川原館は落ち、川原北畠氏は滅亡した。この乱以後、浪岡北畠氏の力は急速に衰え始めた。
その間、大浦氏は着実に力を付けはじめ、大浦氏の攻撃により浪岡城は落城した。落城の時期は大浦氏側の史料と南部氏側の史料によって異なる。
大浦氏側の史料『津軽一統志』によると、天正6年(1578)7月20日、大浦為信は軍勢を三手に分け浪岡城を攻撃した。浪岡城側は戦わずして離散し、当主の北畠顕村は捕らえられた後に自害したとされる。
一方南部氏の史料「南部根元記」によると、天正17年(1589)、浪岡城にいた実質的支配者の南部政信(南部高信の二男)の急死に続き、同18年(1590)3月、大浦方の攻撃の際に支えきれず、郡代の楢山帯刀・南右兵衛らは南部に逃れたという。
落城後の浪岡城は城としての機能を失い、徐々に田や畑となった。
■ 構成
浪岡城は東から新館・東館・猿楽館・北館・内館・西館・検校館・それら全体の北側に外郭と7つの郭に分かれている。
各郭の周囲には幅10m以上の堀があり、特に中心部の北館の周囲には堀の中に土塁が存在している二重堀となっていた。
■ 現況
現在は国指定史跡として整備され、北館には木塀を建て、往時の区画を再現している。
また、城跡の東南端に案内所が設けられている。
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■ 東館南側
案内所から見てすぐ北、東館入口である。石碑が建つ。 |
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■ 東館
北畠氏が津軽為信に滅ぼされた後、為信の弟が一時期代官として住んでいたという郭である。
現在中心部に浪岡城の立体模型が設置されている。 |
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■ 外郭
城の最も北側に位置し、「無名館」とも呼ばれる。
現在は道路で分断され、史跡から一部外れている部分もあるが、かつては城の一部であった。 |
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■ 東館・北館間堀跡
画像奥に位置する郭が北館である。
木橋が架けられ、通路となっているのは空堀の間に設けられた土塁である。 |
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■ 北館中心部
北館は家臣達の居住地である。発掘調査の結果、迷路のような区画になっていた。
当時は何で仕切られていたか不明だが、現在は板塀で仕切り再現している。 |
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■ 北館
調査の結果、柱の跡や建物の位置が判明した。杭のような物は柱の跡である。 大きな建物跡はアスファルトで舗装しており、形がよく分かる。 |
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■ 北館・西館間堀跡
こちらも堀の中の土塁が通路になっている。 |
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■ 西館
西館は北館に次ぐ広さであるが、未調査のため詳細は不明である。 |
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■ 内館西側入口
西館入口の反対側には内館の西側入口が存在する。 |
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■ 内館
内館は主郭にあたり、城主の居館が存在したといわれる。 |
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■ 内館より北側を望む
画像左側は西館、右側は北館であり、堀によって区切られている。 |
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■ 浪岡川
城の南側に流れる。当時はこの川をせき止めていた。
現在は郭間は空堀であるが、当時は水堀だったのかもしれない。 |
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■ 猿楽館
内館東側に位置するが、現在は入口が整備されていない。
かつてここには能舞台があったとされ、城主が猿楽を堪能したという。 |
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■ 新館
画像で道路右側(東側)に位置する。
大永年間(1521〜28)に拡張したとされ、浪岡城の中では最も新しい郭である。 |
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■ 検校館
浪岡城の最も西側に位置する。
未調査のため、詳細は不明である。 |
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■ 石碑
道路で分断された検校館付近に存在する。
「昭和15年」の日付から、浪岡城が国指定史跡を受けた時のものであろう。 |
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■ 配置図
画像外の左側(西側)には検校館が、右側(東側)には新館が位置する。 |
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