■ 沿革
根城は八戸南部氏の居城である。
−南部師行の築城−
建武元年(1334)、北条氏が執権を勤めた鎌倉幕府が滅亡した。
その後、北条氏の影響が強かった陸奥地方を抑えるために義良親王を奉じ、北畠顕家が国司として陸奥国多賀城に入部した。この時に甲斐国波木井の地頭であった南部師行を国司代として糠部郡を治めさせ、師行が居城として石懸村八森に築いたのが根城の始まりとされる。
その際、「陸奥における南朝方の根本になる城」として根城と名づけられたという。
その後、根城の南部氏は、政長・信政・信光・政光と5代続けて南朝方を支持したが、5代政光の代に北朝方の勝利によって南北朝は統一され、以降は今までの本領であった甲斐国を離れて糠部郡を本領とするようになった。
一方、南部氏の宗家である三戸南部氏は、文治5年(1189)に源頼朝の奥州征伐で功を挙げて三戸城に居城を構えていたおり、こちらは北朝方であった。一時勢力を失った南部氏は三戸南部氏を中心にして再び勢力を回復した。
−三戸南部氏の臣下として−
八戸南部氏18代政栄の代に櫛引城の櫛引弥六郎との仲が険悪になり、永禄10年(1567)には櫛引氏が名久井城の東政勝の助けを借りて根城を攻撃した。それによって政栄は元亀2年(1571)、逆に櫛引城を攻め櫛引領の4ヶ村・東領の8ヶ村を手に入れた。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、南部氏26代である三戸南部氏の信直が参陣し、八戸政栄はその留守を預かる事となった。結果、信直は南部氏の総領として南部七郡の本領安堵を認められ、八戸南部氏は三戸南部氏の支配下に入り家臣となった。
さらに九戸政実の乱においては信直を支持して三戸南部氏方の有力者となり活躍した。
天正20年(1592)には秀吉の諸城破却の令が下り、根城は信直によって破却された。しかしその後も八戸氏は根城に住み続け、寛永4年(1627)、八戸南部氏22代直栄(直義)の代に、信直の嫡子利直の要請により遠野へ移り根城は廃城となった。
■ 構成
根城は本丸・中館・東善寺館・岡前館・沢里館の五つの郭から構成される。
本丸は東西約150m×南北約190mで北側に一段低い帯郭が存在し、本丸との間は堀で仕切られていた。本丸の東には中館が位置し、かつては本丸と同じ台地上にあったと思われるが、築城の際、間に南北の堀が掘られて分断された。
東善寺館は中館のさらに東に位置し、東側にある南北に走っている堀は幅約17m、深さ5.7mであった。だが昭和49年(1974)の発掘調査によってその内側にもう一本並行して幅8m、深さ4.5mの薬研掘が確認され、二重掘であった事が確認された。
岡前館は本丸の東、東善寺館の南に位置し、東西約220m×南北約200m で根城内では最も広い郭であり、幅20m程の堀と、その内側には堀を掘った際の土で土塁が造られていた。
沢里館は岡前館の南端に位置し、南側の防備を補うための出丸の役割であったと思われる。
■ 現況
現在は史跡根城の広場として郭・掘・土塁が整備され、建物や木塀が復原されている。
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■ 全景
上記入口から本丸方面を望んだところ。東善寺館・中館を経て本丸へ至る。 |
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■ 東善寺館堀跡
入口に面している郭、東善寺館東側の堀跡である。 |
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■ 東善寺館堀跡
上記画像の堀の南側を望んだところ。
国道104号線を挟んで向こう側が三番堀である。 |
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■ 東善寺館跡遠望
西側より望んだところ。北側に数段の段差が確認できる。 |
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■ 護摩堂跡
東善寺館跡と中館跡の中間に存在する。 |
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■ 中館東側堀跡
中館東側の堀跡。現在でも1m程掘れば水が湧き出る事からかつては水堀であった可能性がある。 |
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■ 本丸東門跡
本丸は木橋を渡り東門から入るコース。 |
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■ 本丸北門跡
復原されているが閉じられたままである。 |
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■ 本丸主殿跡
主殿では当主が特別な来客と会見したり儀式を執り行う場所であった。 |
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■ 本丸常御殿跡
普段当主が寝起きし、政務を行う場所である。 |
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■ 本丸奥御殿跡
当主の家族が住んでいた。当主は常御殿より通っていたという。 |
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■ 本丸井戸跡
木枠のみ再現し、掘り下げてはいない。 |
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■ 本丸番所跡
本丸西門の警備に当たっていたという。 |
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■ 本丸南側
上記画像同様、土塁がはっきり残っている。 |
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■ 岡前館跡
国道104号線を挟んで南側に位置する。
現在はほとんど宅地化されている。 |
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■ 三番堀跡
岡前館の東側に位置する大規模な堀跡である。 |
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■ 沢里館跡
岡前館のさらに南に位置しており、出丸の様な郭である。 |
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