■ 沿革
−大浦氏の居城−
延徳3年(1491)、南部氏の津軽地方の抑えとして南部光信が入部し、種里城を居城にした。
光信は文亀元年(1501)、鼻和郡大浦郷の賀田にある西根城を改修し、翌2年(1502)に大浦城と改称して二男盛信を置いた。光信の跡を継いだ盛信は賀田へ家臣・町民・寺社を移動させ、居城として大浦城を発展させた。
その後、大浦氏は政信・為則と続き、為則の養子になった大浦為信は三戸南部氏の支配下に置かれていることを好しとせず、元亀2年(1571)、石川城攻略を始めとして17年で津軽統一を果たした。
その後、為信は豊臣秀吉により4万5,000石の大名として認められた。
−居城としての終焉−
やがて津軽氏の居城である大浦城では津軽地方の西に偏りすぎているため、文禄3年(1594)、大浦城の支城である堀越城に居城を移した。こうして大浦氏4代90年に及ぶ大浦城を居城とする歴史が終了した。
元和元年(1615)、一国一城令により大浦城は廃城となり、三ノ丸は破壊され城内の建物は破却された。
しかし廃城となったはずの大浦城にはいつしか西ノ丸内に火薬庫が建てられ、津軽氏発祥の地として特別な存在であり続けた。
■ 構成
本丸を中心に東に二ノ丸、さらにその東に三ノ丸、本丸の西には西ノ丸の計4つの郭からなっている。
本丸は不規則ながら不規則ながらほぼ方形で土塁と水堀をめぐらせており、二ノ丸と西ノ丸も土塁と水堀で囲まれ、大手口は二ノ丸の南側にあった。
その大手門は慶長15年(1610)の弘前城築城の際、弘前城の追手門(亀甲門)の二ノ門として三ノ丸北の虎口に移築され、賀田門と称されたが、明治維新後に破却された。
■ 現況
現在は本丸跡・西ノ丸跡はりんご園や畑に、二ノ丸跡には津軽中学校が建っていて遺構はほとんど残っていない。
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■ 大手門跡
県道から入ってすぐに大手門跡がある。現在残る道は曲がっているため、往時に虎口であったことを伺わせる。
大浦城大手門は弘前城が築城された際に弘前城北内門として移築され、「賀田御門」と称された。 |
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■ 説明板と本丸跡遠望
この奥が津軽中学校になっており、二ノ丸跡である。 |
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■ 本丸跡土塁
現在わずかに残る遺構がこの土塁跡である。この画像左側が本丸跡であり、農園になっている。 |
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■ 二ノ丸跡
上記の土塁奥に津軽中学校があり、二ノ丸跡である。 |
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