尾崎城 石碑  訪問年月日  2006年8月20日 / 2009年5月5日
 別称  尾崎館
 所在地  青森県平川市尾崎
 創築者  尾崎氏か
 主要城主  尾崎三郎右衛門・尾崎喜蔵
 築城年  −
 廃城年  慶長5年(1600)
 様式  平城
 構成  主郭・二ノ郭・木戸口出丸・勘助出丸・その他
 遺構  郭・空堀・土塁
 設置・復原物  石碑
 文化財指定  −
 ■ 沿革
尾崎城の築城年は不明であるが、暦応2年(1339年)の尾崎合戦の際、曽我貞光の勢力下にある尾崎館が攻撃されたという記録が残る。従ってこの時、既に尾崎城は存在していたもの思われる。

−大浦氏一族・尾崎氏−
永禄年間(1558〜70)には尾崎三郎右衛門・尾崎喜蔵が1,600石の石高をもって城主となっていた。三郎右衛門は大浦信則の子・元信の弟である。
尾崎氏は当初、南部氏家臣である大光寺城城代・滝本播磨守重行に従っていた。しかし天正3年(1575)に大浦為信の攻撃を受けて大光寺城が落城すると、喜蔵は新屋城主・新屋源次郎と共に為信に降伏し、以降は大浦氏に臣従した。

−尾崎喜蔵の謀反−
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、尾崎氏は津軽にて留守居役を受けていた。しかし為信の命により喜蔵は松野久七・多田玄蕃・板垣兵部らと800の手勢を率いて上方へ向かう事になったが、喜蔵は多田・板垣らと謀ってこれに従わず、謀反を起こして一時堀越城を占拠する事件が起こった。これは直ちに金小三郎(今信則)に平定され、喜蔵も討たれている。

その後、主を失った尾崎城は廃城になったものと思われる。


 ■ 構成
尾崎城は主郭・二ノ郭・木戸口出丸・勘助出丸・その他5郭以上で構成されている。
主郭と二ノ郭は大館とも呼ばれ東端に位置し、東西250m×南北160mの面積である。中央部に東西70m×南北50mの広さが主郭と思われ、最高所となっている。
木戸口出丸・勘助出丸などは外郭とも呼ばれ、本郭の西側に位置している。外郭は全体で東西150m×南北150mの規模である。


 ■ 現況
現在、城域の大部分は尾崎集落となっており、宅地・果樹園となっている。
また、主郭跡に石碑が建てられている。

■ 八幡宮
二ノ郭跡に祀られている。
■ 二ノ郭
尾崎集落の中心部を通る道路。
■ 主郭大手口跡
主郭南東に位置する。
■ 主郭堀跡
主郭南側に設けられている。
■ 主郭
石碑が建てられているが、現在は民家となっており立入ることは難しい。
■ 主郭遠望
北東側より望んだところ。
■ 主郭北側堀跡
幅20m前後の規模の堀跡が残る。
現在は畑地となっている。
■ 木戸出丸遠望
二ノ郭側より望む。
■ 勘助出丸
城域西端に位置する。





おさきじょう
尾崎城