しちのへじょう
七戸城
七戸城 大手口  訪問年月日  2010年9月10日
 別称  柏葉城
 所在地  青森県上北郡七戸町字七戸
 創築者  工藤氏か
 主要城主  七戸氏
 築城年  −
 廃城年  明治4年(1871)
 様式  平山城
 構成  本城・北館・西館・角館・下館・宝泉館・貝ノ口
 遺構  郭・土塁・空堀・水堀
 設置・復原物  標柱・説明板・復原門
 文化財指定  国指定史跡
 ■ 沿革
七戸城は南部氏の重臣である七戸氏の居城である。
創建時期に関しては明らかではないが、一説には建久10年(正治元・1199)に南部光行の三男(四男とも)である七戸太郎三郎朝清が七戸の地を与えられ、築城したといわれるが定かではない。

−七戸の支配者−
七戸の地頭職の名が初めて見えるのは、建武元年(1334)の北畠顕家の国宣においての工藤右近将監である。恐らく相当の期間この地を支配していたと思われるが、その後、七戸の地は伊達宮内大輔行朝、結城七郎左衛門尉朝祐らの支配を経て建武2年(1335)に南部遠江守政長に与えられ、以降は戦国時代まで政長の系統が七戸を支配した。
政長は当初、天間館を居館としたが、後に七戸城へ移った。七戸には恐らく工藤氏統治時代に何らかの城館が築かれ、それを修築したものと思われる。

−根城と七戸城−
政長の兄である南部師行は顕家の国司代として南朝方に付いて糠部郡を支配していたが、建武5年(延元3年・1338)に顕家と共に討死した。そのため政長は根城南部氏を継ぎ、以降、根城南部氏は根城城主と七戸城主を兼務する事となった。その後、根城南部氏は信政・信光・政光と南朝方として続いている。

8代政光は当初甲斐国に居住していたが、明徳の和約によって南北朝が統一されると、明徳4年(1393)に陸奥国に戻り、根城を居城とした。晩年には甥の長経に根城を譲り、自身は七戸城へ移っている。応永34年(1427)に政光が死去すると、嫡子である政慶がその跡を継ぎ、七戸氏初代となった。

−九戸政実の乱−
その後、七戸氏は光慶・守慶・政進・慶武・慶国・家国と続いた。
最後の当主である七戸彦三郎家国は天正19年(1591)、九戸政実の乱において政実方に付き、南部信直勢や奥羽仕置軍に抵抗したが、最終的に政実と共に奥羽仕置軍に降伏し、陸奥国栗原郡三迫において処刑された。
家国の死後である天正20年(1592)、豊臣秀吉の命により南部領の諸城が破却されたが、七戸城もこれに含まれていた。しかし信直は浅水城城主である南右馬助直勝に七戸氏の名跡を継がた。さらに直勝の子・七戸隼人正直時の代には七戸城2,000石の城主となり、南部藩の家老職も務めている。一説にはこの直勝・直時父子が継いだのは七戸慶道の所領であるという説がある。慶道は九戸の乱の際に政実方に付き、家国と同じく滅びているが、その所領は不明であり、定かではない。

直時の死後、正保4年(1647)に南部藩初代藩主である利直の五男・重信が七戸氏を継いだ。しかし寛文4年(1664)に重信が南部藩主を継いだ事により、七戸氏の名跡は元禄3年(1690)に重信の四男である英信が継いだ。なお、英信以降の七戸氏は七戸を所領とせず、七戸は直轄領となって七戸城には代官所が置かれた。

−七戸藩の成立−
文政2年(1819)、重信の子孫である南部播磨守信鄰が藩主・利敬より6,000石を分知され、従来の知行5,000石を合わせて1万1,000石となり、盛岡新田藩(後の七戸藩)を創設させた。信鄰の嫡子・南部丹波守信誉は安政6年(1859)に城主格となったが、これらは書面上のもので両者は江戸詰め大名であった。
文久4年(1864)、信誉の養嗣子である南部美作守信民は陣屋地として三本木村を貸与されたが築城には至らなかった。慶応4年(1868)の戊辰戦争においては盛岡藩と行動を共にし、新政府軍側と戦った。そのため戦後に処罰として1,000石を没収となり、隠居を命じられたため養嗣子である南部信方に跡を継がせた。
その後、明治2年(1869)に1万384石を確定し七戸藩を創設させたが、まもなく版籍奉還を経て明治4年(1871)の廃藩置県を迎えた。


 ■ 構成
七戸城は本丸・二ノ丸・北館・西館・角館・下館・宝泉館の各郭と貝ノ口と呼ばれる高台に分かれ、その内、本丸と二ノ丸は近世以降の代官所として利用されている。この本丸と二ノ丸は中世時代には一ノ郭(本城)であったものと思われ、北館や角館もその一部であった可能性もある。

大手口は南側の広小路に位置し、搦手口は本丸東側の腰郭にあった。
本丸は城跡の東側に位置し、北側に位置する二ノ丸とは土塁や水堀によって区切られている。二ノ丸は城内最大の規模であり、江戸時代には館や蔵、馬場などが設けられた。

二ノ丸の西方には北館が位置し、その間には高さ約4mの土塁や水堀によって隔てられている
北館の南側には角館、さらにそれより南東に西館、下館、宝泉館と続いている。
城域の北側には外郭として貝ノ口が位置し、これらの各郭と貝ノ口との間には大規模な空堀が位置している。


 ■ 現況
七戸城は昭和16年(1941)12月13日に国指定史跡の指定を受けている。
現在、本丸には八幡宮が祀られ、二ノ丸は柏葉公園として整備されている。その他各郭も整備され、遺構は良好に残っており、東門が復原されている。

■ 大手虎口跡
城域南側に位置する。
画像に写る高台は下館である。
■ 宝泉館
上記の大手口の画像左側が宝泉館である。
城域では最も低い場所に位置する。
■ 宝泉館監視所跡
■ 宝泉館空堀跡
幅約4〜5m程度の空掘が残る。
■ 宝泉館武家屋敷跡
■ 下館
現在は七戸町立七戸幼稚園の敷地となっている。
■ 西館
江戸時代には文庫蔵や菜園が設けられていたとされる。
■ 西館南側土橋跡
西館の南側に位置する腰郭を繋ぐ土橋跡である。
■ 角館
現在は一部宅地となっている。
■ 北館〜角館間空堀跡
現在は市道となっているが、かつては北館(画像左)と角館(画像右)を隔てる空堀であった。
■ 北館
城域のほぼ中心部に位置する。
須恵器や中世時代の陶磁器が発掘されている。
■ 北館東側水堀
画像左側が北館、右側が二ノ丸跡である。
■ 北館西側堀跡
北館の東側が水堀であるのに対し、西側は空堀である。
■ 復原東門
文献史料に基づき復原整備された。
■ 貝ノ口南側空堀跡
城域と貝ノ口を隔てる大規模な空堀跡。幅数十mの規模である。
■ 貝ノ口
七戸城の北西側外郭に相当する。
■ 貝ノ口空堀跡
幅、深さ共に約1m程度の空掘である。
■ 貝ノ口土塁跡
高さ約1m程度の土塁である。
■ 本城入口
城域南東側からの入口。画像左側の道は本丸へ、右側は二ノ丸へ至る。
往時のものであったか後世の改変であるかは不明。
■ 本城本丸
現在は八幡宮が祀られている。
■ 本城二ノ丸
現在は柏葉公園として整備されている。
■ 搦手
二ノ丸東側より通じる搦手口。
■ 本城東側腰郭
二ノ丸東側の腰郭を通じて搦手道が通っている。
■ 本城搦手模擬門
途中で模擬と思わしき門が設けられている。
■ 本城搦手入口
七戸町役場脇に位置する。
■ 地図
説明版より。