■ 沿革
高畑城は大光寺城の南方に位置し、支城的役割を果たしていた。
当時、乳井福王寺の別当として勢力を持っていた乳井氏への牽制が主な目的であった。
−乳井建清の復讐劇−
永禄8年(1565)6月5日、乳井城の城主であった乳井覚恩坊玄蕃は、大光寺城の城代である滝本播磨守重行の手によって暗殺された。玄蕃の遺児である乳井大隅守建清は若年のため仇を打てずにおり、その間に重行は乳井城への牽制として高畑城を築いた。城主には重行の家臣である平岡惣右衛門盛景を置いた。
こうして建清の情勢が不利になる中、堀越城主・大浦為信が主家・南部氏に反逆し、石川城を攻撃してこれを落城させる事件が起きる。この機に乗じて建清も高畑城を攻撃し、盛景を討って高畑城を制圧した。やがて建清は大浦氏に臣従し、為信の重臣として津軽統一に活躍した。
−堅城・高畑城−
一方、南部氏側もすぐに手を打ち、南部信直は為信を討つために勢多石隠岐守を先陣として鹿角・花巻の兵をもって碇ヶ関方面から大浦氏を攻撃した。建清は高畑城に籠ってこれを迎え撃ち、板垣兵部将兼と協力して防戦に努めた。やがて為信からの後詰として兼平伊豆守綱則が手勢150をもって応援に駆けつけると、隠岐守は軍勢を引き上げたため、南部勢を撃退する事に成功した。
その後、建清は大光寺城主に任じられたが、高畑城の顛末に関しては不明である。
■ 構成
高畑城は西から東に向かって本郭・二ノ郭・三ノ郭の3郭によって構成されていた。
それぞれ長方形であり、周囲を堀と土塁によってで囲まれていた。堀は幅約3m、深さ約3〜4m程度である。
■ 現況
現在、城跡の中心部に神明社が祀られ、大部分が宅地や水田となっている。
北側の水田に僅かに堀跡が残り、神明社内に土塁と堀跡が残る。
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■ 神明社境内
城跡は3郭に分かれているとされるが、現在は宅地・水田となり判別が難しい。 |
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■ 土塁跡か
神明社内に残る土盛り。土塁跡と思われる。 |
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■ 北側堀跡
現在水田となっているが、幅10m程度の堀跡が残る。 |
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■ 堀跡
神明社西側の南北に流れる水路。郭を区切っていた堀跡かと思われる。 |
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