■ 沿革
高田城の創建時期については明らかではない。
天正年間(1573〜91)の頃には、高田城主として土岐大和之助則基の名が見える。則基は三戸南部氏の家臣として津軽郡代・南部(石川)左衛門尉高信に仕え、高田村・荒川村に800石の知行をもって弘前大境目の任を務めていた。
天正6年(1578)、浪岡城が大浦為信の軍勢に攻められ落城した際、則基は高田城において討死し、則基の長男である善兵衛則里も浪岡城にて討死した。しかし二男・善助則忠と三男・善四郎則古は生き延び、南部高信の次男で次の津軽郡代・南部彦次郎政信の娘を戦乱の浪岡城から救出し、三戸城主である伯父・南部大膳太夫信直の下へ無事に送り届けている。
後にその娘が七戸城主である七戸隼人正直時に嫁いだ際、二人はこれに従い、直時の命で土岐氏から高田氏に改称して七戸に定住した。
高田城は、この大浦為信の攻撃のあと、廃城となったものと思われる。
■ 構成
高田城は高田集落の北東に位置し、東側に張り出した低台地先端に位置する。
主郭の面積は約10,000uの規模で西・北・南の三方を堀で囲まれており、幅10〜15m、深さ3〜10mの規模であり、東側は比高約10mの崖を利用している。
■ 現況
現在は主郭の堀・土橋など良好に残っているが、周囲は宅地化され遺構は殆ど残っていない。
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■ 主郭跡西側堀跡
幅・深さ共にかなりの規模である。 |
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■ 主郭跡西側
堀跡の外側。比高は1m程度になっている。 |
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■ 主郭跡東側
何故か中央で仕切られている。所有者の違いか…? |
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■ 主郭跡北西側
外周が堀で囲まれているのが分かる。 |
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■ 主郭東側
主郭とは崖で隔てられ、平地が広がる。 |
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