■ 沿革
滝井館は永禄元年(1558)、浪岡北畠氏9代具運の弟である顕範が、浪岡城の西の守りとして築いたのが始まりである。
しかし滝井館は川原浪岡氏の所領である水木館に隣接しており、川原北畠氏はこれに不満を持った。そして永禄5年(1562)、川原北畠氏の当主・具信とその子・顕重が浪岡城主・北畠具運を殺害する事件が起こる。
これに対し、顕範は報復として川原館・水木館を攻撃し、川原北畠氏を滅亡させた。
一方、滝井館の北畠氏は顕範の子である顕忠、その子・顕則と続いている。
−北畠氏の滅亡−
天正6年(1578)、浪岡城は大浦為信の侵攻を受けた。この攻撃により浪岡城は落城し、北畠総領である顕村は自害して果て、浪岡北畠氏は滅亡した。
これに伴い、周辺の北畠一族も四散し、滝井館は一時廃棄された。
−御家再興−
その後、顕忠の三男・顕佐は顕村の娘と婚姻を結び、北畠氏の宗家を継承した。そして慶長5年(1600)には家臣らと共に滝井館跡に戻り、山崎氏を名乗って代々庄屋・医師として活躍した。この際、山崎氏は滝井館の堀を埋め、津軽藩に逆らうことのない意思を示したという。
明治時代に入り、山崎氏は県令に復姓願いを提出した。明治15年(1882)にはこれが認められ、改めて北畠氏を名乗って現在に至っている。
■ 構成
滝井館は方形状の単郭であったとされ、その面積は東西約80m×南北約180mであり、水堀と土塁によって囲まれていたとされる。
■ 現況
滝井館跡には北畠氏の子孫が在住しており、非公開となっている。
周辺は宅地・水田となっており、往時の規模は推測できないが、一部土塁・堀跡などの遺構が残っている。
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■ 説明板
道路沿いに説明板・標柱が設置されている。 |
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■ 主郭跡
現在は北畠氏の子孫が住んでおり、立入りは不可である。 |
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■ 西側土塁
画像左端には堀跡と思われる用水路が見える。 |
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