■ 沿革
−南部光信の津軽入部−
嘉吉3年(1443)、南部氏によって津軽から渡島(北海道)に追払われた安東氏は、度々津軽奪還を企て西ヶ浜地方を侵攻していた。そのため、三戸南部氏は西ヶ浜方面の押さえとして、南部光信に津軽地方の鼻和郡を与え、光信は延徳3年(1491)に入部して種里城を居城として大浦氏を名乗った。
−大浦氏の拠点として−
種里城は山間部に位置するため、海上からの侵攻に備えて入部翌年の明応元年(1492)に浜館を築き、続いて赤石城を築いて弟の一町田壱岐や家臣の大曲和泉・対馬某に守らせ安東氏に対抗した。
文亀2年(1502)、光信は鼻和郡大浦郷の西根城を改築し、大浦城と改称して養子である盛信の居城としている。大永6年(1526)に光信が種里城において死去すると、盛信は弟の盛純に種里の地を与えた。盛純は種里五郎と称し、後に兼平伊豆と称した。
その後元和元年(1615)、一国一城令により種里城は廃城となったが、津軽始祖である光信の墓所がある聖地とされた。
■ 構成
種里集落南西にある標高50〜60m程の山に位置する。
本丸は東西100m×南北300mで、郭内に段差が見られる。本丸から数段低くなった二ノ丸には南部光信の墓所がある。
■ 現況
現在は「光信公の館」として建造物を建て、津軽氏に関わる資料を展示している。
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■ 光信公の館
入口石段を登ると頂部に行き着く。そこが本丸跡地である。
現在は「光信公の館」が建てられており、資料が展示されている。手前には南部光信公の銅像が建てられている。 |
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■ 本丸主殿跡
平成4〜6年の発掘調査によると多数の柱穴が確認され、14世紀末から16世紀後半にかけて4回以上建て替えられた形跡があったという。 |
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■ 南部光信公御廟所
大永6年(1526)、67歳で光信が没した際にここに葬られた。
その際遺言によって甲冑を着用し、太刀を帯びて法螺貝を持った姿勢で辰巳(東南)に向けて埋葬されたという。 |
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■ 奈良主水源貞親御墓所
奈良主水は光信に殉死した家臣であり、そのため光信の廟所の隣に葬られている。 |
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