■ 沿革
和徳城は弘和年間(1381〜84)に、藤崎城主である安東氏の庶流、安倍某が築城したとされる。
しかし十三安東氏が南部氏に追われて蝦夷に逃れると、南部氏は津軽地方の内陸部に侵攻することになる。
−小山内氏の謀反−
文安2年(1445)、安倍伊代守が城主の際、和徳城は南部氏に攻められた。伊予守は城をよく守って善戦したが、配下の土豪である小山内讃岐守が南部氏に内通し、伊予守を殺害した。以後、小山内氏は南部氏の配下となって和徳城主となる。その後、讃岐守の子である小山内出羽守満春は隠居して永春と号し、さらにその嫡子も讃岐守を名乗った。
−津軽氏進攻−
元亀2年(1571)5月5日、三戸南部氏の支配に不満をもった大浦(津軽)為信が決起した。
為信は手始めに石川城を攻め、城主で南部氏の有力者である石川高信を自刃せしめて落城させた。さらに為信はその日のうちに和徳城も攻撃し、讃岐守はこれを防ぎきれず自刃した。讃岐守の嫡子である主馬・次子求馬・三子弥三郎、さらに隠居していた永春も討死し、和徳城は落城した。
その後、和徳城は為信によって配下の森岡金吾信元に与えられた。
しかし為信が津軽地方を領有し、弘前城が完成した頃には和徳城はすっかり廃城の様を呈していた。
■ 構成
和徳城は南北に長い城で、大手口は東側に位置していた。
■ 現況
現在は宅地化され、遺構はほとんど残っていない。
和徳稲荷神社周囲が城跡と呼ばれている。
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■ 和徳稲荷入口
神社の南東側にあたる。
和徳城の大手も東側に位置していたというので、ひょっとしたら
かつては大手口であったのかもしれない。 |
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■ 和徳稲荷神社境内
ここが城域であったと思われる。 |
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■ 神社裏手
児童公園となっている。平場としてそれなりの広さである。 |
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■ 県道260号線
城跡の東側を南北に通っている。羽州街道でもある。 |
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