横内城跡  訪問年月日  2003年8月16日 / 2007年8月19日
 別称  堤城・鏡城
 所在地  青森県青森市横内字亀井
 創築者  田子弾正左衛門光康
 主要城主  堤氏
 築城年  明応7年(1498)
 廃城年  −
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
かつて三戸南部氏が外ヶ浜の地を支配下に置いた際、南部氏20代信時は、四男である田子弾正左衛門光康を堤浦の古館に置いて統治にあたらせた。光康は明応7年(1498)に横内城を築いて居城とし、当時は荒野であった青森平野を開拓した。
後に光康は堤弾正と名乗り、代々その名を継いで子孫は剛勇を謳われたという。

天正13年(1585)、大浦為信の外ヶ浜攻略において油川城が落城した報を聞き、4代堤弾正は城を出て大浦勢を迎え撃った。しかし高陣場において為信配下の福士弥三郎・福士小三郎らによって討たれたという(迎え撃ったのではなく城を捨てて逃亡した説もあり)。

その後、横内城には大浦氏の下で十人衆と呼ばれる城番が置かれた。


 ■ 構成
横内城は東に横内川、西に合子沢川が流れる比高約8mの平城である。
かつては形状が円形であったため鏡城の別名を持っていた。
本丸は東西80m×南北160mの規模であり、東側を横内川に面する崖、西・南・北は堀で囲まれていた。北と南の堀は幅10〜15m、深さ7〜8mの規模で、さらに北側に幅6〜8m、深さ5mの規模の堀が存在する。西側の堀は幅8m、深さ2mとやや浅くなっていた。
二ノ丸・三ノ丸も存在していたとされ、それらを含めると直径160m程度の円形状の城であった。



 ■ 現況
現在本丸跡に常福院が建ち、周囲は市街地化され民家となっている。

■ 駐車場
かつての本丸跡と思われる。
画像中央左側に、3代目城主である堤弾正孫六則景夫妻の墓が祀られている。
■ 常福院境内
引き続き本丸跡であると思われる。
■ 本丸東側
横内川に続く崖となっている。
■ 本丸南側堀跡
本丸側より望む。幅10〜15m、深さ7〜8mの大規模なものである。
■ 南側
現在は住宅地となっている。画像左側が堀跡となっている。
■ 本丸南側堀跡
緩い傾斜となっているが、画像左側繁みが本丸南側の大規模な堀跡となっている。
■ 本丸北側堀跡
南側と同様大規模な堀跡である。





よこうちじょう
横内城