■ 沿革
鎌倉時代、この地には佐藤秀行が領主として治めており、その後も相馬重胤、伊達宗遠らが治めるなど、重要な拠点であった。
−天文の乱−
天文11年(1542)、伊達氏14世稙宗は三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後国守護である上杉定実へ入嗣させようとした際、これに反対する嫡子・晴宗と対立した。稙宗は晴宗によって西山城に幽閉され、これによって伊達氏家臣や周辺の諸大名を巻込んだ「天文の乱」が勃発することになる。
−別称「東館」と「隠居館」−
この天文の乱において、八丁目城主である清野備前守は稙宗方に属した。備前守は居城の東南約1.4kmの位置にある土合山に土合館を築き、自らの館とした。この際、土合館を東館、八丁目城を西館と称したという。土合館は八丁目城の支城的役割を果たし、八丁目城と奥州街道を挟んで対を成して、街道の抑えとして機能した。
また、土合館は、清野備前守がこの館で隠居生活に入ったため「隠居館」とも呼ばれている。そのため、それまで居城であった八丁目城には子息である清野遠江守が城主になった。一時、天文の乱によって逃れてきた伊達稙宗が八丁目城に入城したことも、隠居館への移転を意識させたのかもしれない。
−伊達実元・成実父子−
しかし、後に清野遠江守は伊達氏に叛いたため伊達氏の攻撃を受けて自害し、清野氏の後に堀越氏が八丁目城・土合館の城主となったという。その後、堀越氏も伊達氏に叛き、大森城主である伊達実元が天正2年(1574)に八丁目城を攻撃してこれを奪回した。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置において八丁目城が廃城になると、土合館も共に廃されたものと思われる。
■ 構成
土合館は八丁目城の東南1.4kmの地にある標高225.2mの丘陵上に位置している。
全体の規模は東西130m×南北330mであり、主郭は頂部の平場で東西50m×南北80mの規模を擁していた。
主郭の北東側・北西側・南側の3方向にそれぞれ尾根続きの郭が設けられ、北東側と北西側に伸びた尾根の中間の平場に、東西に伸びる土塁が位置し、虎口が設けられていた。
■ 現況
現在は土合館公園として整備されているが、遺構は比較的良好に残っている。
|
|
■ 北側堀跡
外周を堀跡で囲んでいる。
現在は大部分が空堀となっているが、一部水が溜まっており、往時は水堀であったとも思われる。 |
|
■ 虎口跡
現在は公園化され橋が設けられているが、当時も恐らく橋が架けられていたと思われる。 |
|
■ 虎口跡
東西に伸びる土塁が設けられ、虎口が存在していた。 |
|
|
|
|
|
■ 町畑
土合館東側に位置する。
地名を「町畑」とし、当時は家臣屋敷が存在していたとされる。 |
|
|
|
■ 平場跡
主郭北西側の平場である。後世の改変か、傾斜が大きい。 |
|
■ 物見跡
北西端に位置する郭。標高210mで主郭に次ぐ高さである。 |
|
|
|
|
|