■ 沿革
藤田城は通称「源宗山」と呼ばれる丘陵に位置している。
−「源氏の宗家の山」の伝承−
「源宗山」とは「源氏の宗家の山」という意味であり、文治5年(1189)の阿津賀志山合戦において源頼朝が鎌倉勢の本陣を敷いた場所であるとの伝承が残っている。
創建時期は明らかではないが、南北朝時代には霊山城の支城として、宇津峰城・川俣城と共に南朝方の有力な拠点であった。「伊賀盛光軍忠状」によると、貞和3年(正平2・1347)に藤田城をめぐる攻城戦が行われたことが記されている。
−藤田氏の居城か−
室町時代に入ると城主は藤田氏になったものと思われる。藤田氏は伊達氏の有力な家臣であり、伊達成宗が上洛の際には大枝氏・中野氏・遠藤氏らと共に藤田氏を引連れている。
しかし天文年間(1532〜1555)に藤田氏は一時断絶したため、伊達氏の家臣である懸田俊宗の二男である七郎晴親が伊達稙宗の了承を得て藤田氏の名跡を継いだ。しかし「天文の乱」の影響で天文22年(1553)に懸田氏が滅亡したため、藤田晴親は叔母である相馬顕胤夫人を頼って落延びた。
天正4年(1576)、晴親の子である宗和は伊達輝宗に帰順し、再び藤田の名跡を継ぐことを許された。しかし藤田城を与えられたかどうかは不明である。
元和8年(1622)、藤田氏は伊達政宗の時代において、陸奥国江刺郡の岩谷堂城の城代となるが、延宝6年(1678)に藤田氏は罪に問われて断絶した。
■ 構成
藤田城は福島盆地北部の独立丘陵上に位置している。
頂部に主郭が位置し、周囲には土塁が配され、その外側には空堀が巡らされていた。大手口は南側に位置し、搦手口は北側に位置し、枡形が設けられていた。
主郭が位置する丘陵の南西側には古館や山崎小館が存在し、いずれも藤田城の根子屋的な役割を果たしていたものと思われる。
■ 現況
藤田城は現在、主郭が位置していた丘陵上の東半分が住宅地に、西半分が公園となっている。
丘陵の南西側は住宅地となっており、古館跡や山崎小館跡は公園化されている。
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■ 主郭跡
主郭東端の画像である。
現在は東半分が住宅地となっている。 |
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■ 内郭跡
主郭中央部に位置していた。
画像では左側が若干高くなっている。 |
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■ 主郭搦手口跡 主郭北西側に位置する。
公園の一部がせり出しており、かつてこの場所に搦手口が設けられていた。 |
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■ 主郭西側腰郭跡
主郭の外周には腰郭が設けられていた。 |
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■ 水雲神社
主郭西側に位置する。
副郭の役割を持っていたと思われる。 |
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■ 枡形か
水雲神社裏手の道である。クランク状になっており、枡形が設けられていた頃の名残と思われる。 |
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■ 古館跡
主郭の南西に位置する。
藤田城の根子屋的役割を持っていたと考えられる。 |
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■ 古館跡より山崎小館跡方面を望む
山崎小館も古館と同様に根子屋的要素を持っていたと思われる。
藤田古館と山崎小館の間は空堀で区切られていた。 |
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