はっちょうめじょう
八丁目城
八丁目城  訪問年月日  2009年9月21日
 別称  松川城・西館・愛宕館
 所在地  福島県福島市松川町字愛宕山
 創築者  −
 主要城主  堀越宗範・清野備前守・清野遠江守・伊達実元
 築城年  −
 廃城年  天正18年(1590)
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  郭・土塁・空堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
八丁目城の創建時期は明らかではないが、「八丁目」の地名は天文7年(1538)当時の『御段銭古帳』においてその名が見える。また、その地名の由来は安達郡の境より八丁の距離にあることからそう呼ばれていたとされる。

−天文の乱−
天文11年(1542)、伊達氏14世稙宗は三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後国守護である上杉定実へ入嗣させようとした際、これに反対する嫡子・晴宗と対立した。稙宗は晴宗によって西山城に幽閉され、これによって伊達氏家臣や周辺の諸大名を巻込んだ「天文の乱」が勃発することになる。

この乱において、八丁目城主・堀越能登守は稙宗方に属し、晴宗方の二本松城を攻撃して畠山氏の家中を稙宗方とした。さらに小梁川宗朝によって稙宗が西山城より救出されると、稙宗は懸田城を経て天文12年(1543)8月、八丁目城に入城した。これにより、翌天文13年(1544)には八丁目城は晴宗方の攻撃を受けている。
天文14年(1545)、稙宗は八丁目城を出て大森城に移ったが、後に足利幕府将軍である足利義輝の仲介により天文の乱は天文17年(1548)に終結した。

−清野氏の存在?−
一説にはこの天文の乱の時期において、八丁目城主は清野備前守であったともされる。備前守は八丁目城より南東1.4kmの地に土合館を築き、自らはこれを居城として「東館」と称し、それに対して八丁目城には子息である遠江守を城主にして、これを「西館」と称したという。
しかし、後に清野遠江守は伊達氏に背いたため、伊達氏の攻撃を受けて自害し、清野氏の後に堀越氏が八丁目城主となったという。

−伊達実元・成実父子の城−
元亀年間(1570〜73)に入り、堀越能登守宗範(家範か)は二本松城主である畠山義国に内通し、八丁目城は畠山氏の支配下となった。これに対し、大森城主である伊達実元は天正2年(1574)に八丁目城を攻撃してこれを奪回した。
後の天正13年(1585)、実元は嫡子である成実に家督を譲り、自らは大森城を出て八丁目城に入り、隠居して棲安斎と号した。天正15年(1588)、実元が死去すると八丁目城は城主不在となっている。この間、大森城の支城として成実の支配下にあった。

−奥羽仕置−
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置により、伊達政宗は会津・岩瀬・安積を没収された。この際、浅野長政が八丁目城に在城して太閤検地を実行した。
この奥羽仕置により、八丁目城は廃城になった。


 ■ 構成
八丁目城は標高251mの丘陵上に位置し、主郭・二ノ郭及び多数の帯郭によって構成される。
本丸は最高所に位置し、東西約40m×南北約50mの規模であり、南方や東方へ尾根続きに郭が設けられている。
二ノ郭は南方に位置し、東西約35m×南北約40mの規模であり、周囲には数段の郭が配されている。


 ■ 現況
現在、八丁目城の主郭跡・二ノ郭跡には毘沙門天や愛宕神社、忠魂碑などが祀られているが、特に公園として整備されている訳ではない。
周辺は田畑や果樹園、墓地などに利用されている。

■ 大手門跡か
城域の麓の南西側に位置する。
■ 主郭を望む
画像中央部が主郭であり、画像左側が二ノ郭である。
■ 二ノ郭入口
南端に位置する。
■ 二ノ郭南側
数段の腰郭を擁している。
■ 二ノ郭段築
二ノ郭東縁部である。
数段の段差が確認できる。
■ 二ノ郭虎口
スロープ状となっている。結構珍しい構造であるが、往時の物か後世の物かは不明。
■ 二ノ郭跡
忠魂碑が祀られている。手前の屋根は崩れ落ちた社。
■ 二ノ郭段築
二ノ郭北東部である。
■ 二ノ郭・主郭間空堀
画像左側が二ノ郭、右側が主郭である。
■ 主郭入口
南側に位置する。
■ 主郭腰郭
数段の腰郭が確認できる。画像右側の社は愛宕神社である。
■ 主郭跡
最頂部に位置している。奥には毘沙門天が祀られた祠が位置する。
■ 段築
主郭より東側に尾根続きで段築が確認できる。
恐らく腰郭が設けられていたと思われるが、構成の改変も多々考えられる。
■ 空堀跡
東側に伸びる段築の空堀跡。
■ 米沢街道
城域の南西側を通っている。
現在は県道52号線となっているが、往時は米沢街道として交通の要衝に位置していた。
■ 遠望
松川町「めがね橋」付近より望む。