■ 沿革
浜崎城の地は中世以来交通の要衝として会津北部の重要拠点であった。
『会津古塁記』によると「別名藤森城と称し、浜崎主馬が至徳年間(1384〜86)に築いた」とされているが確証はない。しかし『真壁文書』によると、観応3年(1352)に蘆名直盛と推定される三浦若狭守が、真壁政幹の代官である薄景教らを率いて河沼郡の諸城を攻めた旨が記されており、その中に浜崎城も含まれている。このことから浜崎城はそれ以前に築城されていたと推定される。
宝徳3年(1451)8月、蘆名氏の内紛の際に猪苗代盛光が浜崎城を攻め落としたが、盛光は小峰城主の白河結城義季の仲裁により撤収した。そのため浜崎勒負政頼は再び城主として復帰したが、その後蘆名氏は城代として主馬某を置いた。その後享徳2年(1453)には松本右馬允通輔が蘆名盛詮に対して謀反を起こすが、白河結城氏の援護を受けた蘆名氏に浜崎城を落とされ、浜崎氏は滅亡した。
天正年間(1573〜92)には上野甚五郎某が入城していたが、天正17年(1589)、蘆名氏滅亡後は伊達政宗の重臣片倉小十郎景綱が入城した。
しかし翌年に政宗が陸奥国岩出山に転封された後は蒲生氏郷が会津に入部し、領内各地へ重臣を置いて浜崎城には蒲生喜内頼郷を入城させた。慶長6年(1601)、蒲生秀行の代には蒲生主計介郷貞が入城して大幅な改修を加え、城域を拡大した。
元和元年(1615)、一国一城令が発せられると浜崎城は廃城の予定であったが、蒲生氏は「茶屋」と名付けてこれを残したとされる。
■ 構成
浜崎城は浜崎集落東北端の日橋川左岸に位置する。
本丸は東西90m×南北110mで、四方を幅約10mの堀をめぐらしており、高さ約6mの土塁によって囲まれていた。
本丸西側には、ほぼ同じ面積の二ノ丸がが位置し、本丸同様に堀と土塁によって囲まれ、北側は日橋川によって守られ、堀は川より水を引かれていた。
■ 現況
現在は本丸の中心を国道121号線が南北に通り、二ノ丸は果樹園となっているが、JR磐越西線が通っており、遺構はほとんど破壊されている。
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■ 本丸跡
現在は国道121号線が縦断しており、周囲も宅地化されている。 |
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■ 本丸西側堀跡
大規模な堀跡が明瞭に残っている。 |
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■ 日橋川
城の北側を流れており、城内の堀の水を引き入れていた。 |
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