ふくしまじょう
福島城
福島城 石碑  訪問年月日  2004年5月2日
 別称  大仏城・杉妻城・杉目城
 所在地  福島県福島市杉妻町
 創築者  杉妻氏?
 主要城主  杉妻氏・伊達氏
 築城年  ?
 廃城年  明治2年(1869)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸・西ノ郭
 遺構  土塁
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
天保12年(1841)の『信達一統志』では治承年間(1177〜81)頃、杉妻太郎行長の居城であったといわれるが、詳細は不明である。

−伊達氏の築城−
応永20年(1413)、伊達持宗は掛田城主の懸田定勝と手を結んで鎌倉公方である足利持氏に背き、大仏城(当時の福島城)に立て籠もった。そこで持氏は二本松城主の畠山国詮、白川城主の白川満朝らを差し向けたが、大仏城は城内の失火のため兵糧を失い落城した。持宗は一旦会津に逃れたが、後に大仏城を取り戻して梁川城に居城した。

天文11年(1542)、伊達氏14世稙宗と嫡子晴宗が争った天文の乱後、晴宗が発給した文書の中に牧野相模の知行として「杉目館」と記載されている。そのため、天文年間(1532〜55)には大仏城は杉目城(館)と改称され、牧野相模が拠っていたと思われる。
その後晴宗は居城を西山城から米沢城に移し、永禄7〜8年(1564〜65)頃、家督を息子の輝宗に譲って自身は杉目城に隠居した。晴宗が天正5年(1577)に死去すると、以後福島城には晴宗の末子である杉目直宗が在城している。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置によって信夫郡・伊達郡は蒲生氏郷に与えられ、翌19年に秀吉の側近で氏郷の客将である木村吉清に信夫郡5万石を与えられ、大森城に入城した。その後吉清は、文禄元〜2年(1592〜93)頃に杉目城に居城を移し、大森城を模して改修を行い、福島城と改称した。しかし文禄4年(1594)に吉清は死去し、秀吉は浅野長政に福島城の破却を命じた。
慶長3年(1598)、蒲生氏に替わって越後より上杉景勝が入部すると、福島城には城代として景勝の重臣である水原親憲・本庄繁長らが入城した。寛文4年(1664)、藩主の上杉綱勝が急死すると、世継騒動により30万石から15万石に半減させられ、福島城は幕府直轄になった。

−目まぐるしく替わる城主−
その後延宝7年(1679)、徳川四天王の一人に数えられた本多忠勝の子孫である忠国が大和郡山より15万石で福島城に入城し、ここに福島藩が成立した。本多氏は天和2年(1862)まで在城し、
貞享3年(1686)〜元禄13年(1700)堀田正仲10万石
元禄15年(1702)〜明治2年(1869)板倉重寛3万石 と変移したが、
慶応4年(1868)、戊辰戦争によって福島藩は新政府軍に降伏し、明治2年(1869)、板倉氏は三河国重原に移転になり、その後福島城は破却された。


 ■ 構成
西から西ノ郭・二ノ丸・本丸・三ノ丸と連なり、城の南側に阿武隈川の水を引き入れ内堀とした。
西ノ郭北側に大手門が位置し、西側に西門、また本丸に北門・東門が設けられていた。


 ■ 現況
本丸・二ノ丸跡は福島県庁や知事公館となり、僅かに土塁の一部が残っている。
また、阿武隈川の浸食により、城の一部が消失してしまった。

■ 本丸馬場跡
現在は福島県庁となっている。
■ 本丸御殿跡
福島県庁向かいの駐車場。ここにかつての福島城本丸御殿があった。
■ 北西土塁跡
福島第一小学校敷地に残る内堀土塁跡。
■ 西門南土塁跡
福島県庁裏手に残る。この土塁の向こう側(西側)には土塁に沿って堀があったという。
■ 庭園跡
現在は知事公館向かいの「もみじ山公園」となっている。
■ 阿武隈川
かつて城の南東部を流れていたが、侵食により城の一部(手前)が削られてしまった。
■ 地図