■ 沿革
猪苗代城は佐原義連の孫である佐原経連が建久2年(1191)に築き、以後経連の子孫が猪苗代氏を名乗って耶麻郡周辺を支配したとされる。しかし経連が猪苗代を拝領されたのは宝治2年(1248)とする説もあり、はっきりしない。
明確な資料に表れるのは貞和4年(正平3・1348)のことである。奥州管領である畠山国氏・吉良貞家が耶麻郡下利根河村の地を、三浦大炊小太郎佐衛門尉盛道の妻である平氏に安堵するよう幕府に紹介しており、この盛道なる者が猪苗代氏であるとされる。
−猪苗代氏と蘆名氏−
猪苗代氏は佐原光盛の子孫である蘆名氏の一族といわれているが、応永27年(1420)から天文16年(1547)までしばしば蘆名氏と争っており、独立性が強い関係であったようである。
一方、天文20年(1551)には蘆名盛氏が猪苗代平太郎に偏諱を与え、猪苗代盛国と名乗らせた。この頃から猪苗代氏は蘆名氏に対し臣従したものと思われる。
しかし天正16年(1588)、既に嫡子・盛胤に家督を譲って隠居していた盛国は、伊達政宗の誘いを受け、盛胤が黒川城へ出向いている隙を突き、猪苗代城を奪取した。さらに翌天正17年(1589)6月1日には伊達政宗に内応して臣従した。
これによって政宗は無血で猪苗代城に入城することになり、5日には摺上原合戦において蘆名氏を破って会津地方全域を手中に収めた。盛国は政宗に内応した功により、猪苗代に5百貫文の領地を加増され、伊達氏の一家に準じられた。
−猪苗代氏支配の終焉−
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置において政宗は会津の地を没収され、盛国は政宗と共に猪苗代の地を去った。その後、会津の地は蒲生氏郷に与えられ、猪苗代城は町野左近が2万8,000石を与えられ城代を務めた。
以後、上杉氏、蒲生氏(二次)、加藤氏、保科氏と会津の統治者は目まぐるしく変遷したが、その間は猪苗代城は若松城の支城して時代を通して城代が置かれていた。
明治元年(1868)、戊辰戦争の際、母成峠を突破した新政府軍の接近により、城代である高橋権太夫は城を焼き払って若松城に撤退した。その後、猪苗代城は廃城となった。
■ 構成
猪苗代城は、磐梯山の南東麓に形成された標高550mの丘陵に位置する。
本丸は丘陵の中央部に位置し、周囲に帯郭を配して東と南に入口を設けた。また本丸の東側に二ノ丸、三ノ丸を設けた。
■ 現況
現在本丸周辺は亀ヶ城公園として整備されている。また、三ノ丸付近は猪苗代小学校になっている。
|
■ 野面積石垣
猪苗代城は石垣を多用した城である。 |
|
|
■ 冠木門枡形跡
右に曲がる枡形が設けられているため、左側にスペースがある。 |
|
|
■ 櫓門跡
さらに登ると、かなりの幅の門跡が現れる。 |
|
|
|
|
|
■ 本丸より二ノ丸を望む
本丸西側より下を望んだところ。 |
|
■ 本丸より二ノ丸を望む
上記画像より南側を見た。 |
|
■ 南郭跡
本丸より一段低くなっている。
ここにはかつて土蔵があったようだ。 |
|
|
|
|
|
|
|