いしもたじょう
石母田城
石母田城 説明板  訪問年月日  2009年9月20日
 別称  −
 所在地  福島県伊達郡国見町石母田字館ノ内
 創築者  −
 主要城主  石母田氏
 築城年  −
 廃城年  天正18年(1590)
 様式  平城 / 複郭式
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  土塁・水堀・土橋・東出丸
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
石母田城は、伊達氏の重臣である石母田氏の居城である。

−「天文の乱」の舞台−
創建に関しては明らかではないが、天文11年(1542)の「天文の乱」において、伊達氏11世稙宗が嫡子である晴宗によって西山城に幽閉されている。しかし稙宗は小梁川信濃守宗朝に救出され石母田城に移り、翌天文12年(1543)4月には稙宗派の懸田俊宗が城主であった懸田城に移った。

天文13年(1544)、懸田城において家臣が晴宗派に内応する事件が起きた。このため稙宗は再び石母田城に逃れたが、晴宗は石母田城を攻撃し、これを落城させた。それにより稙宗は石母田城を逃れて八丁目城に移った。
この際の石母田城主は不明であるが、稙宗派であった石母田宮内少輔と石母田彦三郎らは失脚し、替りに石母田光頼とその弟である氏頼が封じられている。
光頼は弘治〜永禄年間(1555〜1570)に朝廷より従五位下安房守に任じられ、また足利幕府将軍・足利義輝からは奥州守護代に任じられている。

永禄7年(1564)、伊達氏の家督を継いだ輝宗と、角田城主である田手宗光は対立した。これを収めようと調停に乗り出した晴宗が居城・杉ノ目城から石母田城に赴いた際、輝宗の攻撃を受けるという事件が起きている。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置において石母田城は廃城となった。翌天正19年(1591)、石母田景頼は伊達政宗の岩出山移封に従い、伊具郡高倉村の荒山城に移った。


 ■ 構成
石母田城は本丸・二ノ丸・三ノ丸からなる複郭式の平城である。
本丸は北端に位置し、東西100m×南北120mの規模であり、北側・西側の外部とは幅8m、深さ3〜5mの外堀によって断切られている。東側・南側には三ノ丸が位置し、幅12m、深さ2.7mの内堀・丸堀によって区切られ、堀の内側には幅20m、高さ4〜6mの大規模な土塁で囲まれていた。三ノ丸との出入口には東出丸・南出丸などの馬出が設けられていた。
二ノ丸は本丸の南西側に位置し、往時には「西」と呼ばれていたようである。
二ノ丸・三ノ丸は、本丸の外堀にも繋がる幅5〜10mの規模の水堀によって囲まれ、その内側には幅5〜8m、高さ2.5mの土塁が廻らされていた。


 ■ 現況
現在、石母田城の城域は住宅地・果樹園となっており、郭と水堀・土塁の一部が現存している。

■ 北側外堀跡か
現在は用水路となっている。
■ 三ノ丸北西側土塁跡
この向こう側は本丸である。
■ 丸堀跡
三ノ丸西側の内堀であった。
現在はほとんどが埋立てられている。
■ 三ノ丸西側堀跡
最も広大に残る堀跡である。
■ 東出丸跡
本丸と三ノ丸の出入口である馬出し跡。
水堀を土橋で繋いでいる。
■ 本丸南側土塁跡
水堀の内側に配された土塁である。
■ 本丸跡
土塁・水堀に囲まれている。
現在は果樹園となっている。
■ 本丸土塁跡
北東隅の土塁である。
■ 石母田石
天正19年(1591)、石母田氏がこの城を去るにあたり、この石を持ち去った。
しかし、この石は故郷を偲んで七夜に渡って泣き声をたてたため、再びこの地に戻したとされる。
■ 三ノ丸西側堀跡
水堀の向こうは本丸である。
■ 三ノ丸跡
現在は果樹園・宅地となっている。
■ 地図
説明板より。