慶徳城跡  訪問年月日  2006年5月3日
 別称  −
 所在地  福島県喜多方市慶徳町豊岡字今町
 創築者  ?
 主要城主  慶徳氏
 築城年  ?
 廃城年  ?
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  郭・土塁・空堀
 設置・復原物  
 文化財指定  −
 ■ 沿革
慶徳城の築城時期は明らかではないが、蘆名氏の家臣である慶徳氏の居城であったとされる。
慶徳氏に関しては『塔寺八幡宮長帳』に経徳新左衛門の名が見える事から、経徳(慶徳)氏は天文年間(1532〜54)には蘆名氏の居城黒川城下に屋敷を構えていたことがわかる。

天正元年(1573)頃には慶徳善五郎が城主であったとされる。善五郎は蘆名氏の宿老である平田是亦斎舜範の子であるが、慶徳城主である慶徳氏を継いだ。
天正8年(1580)に蘆名盛氏が没し、二階堂氏から入嗣した盛隆が跡を継いだが、その頃には蘆名氏の求心力も次第に薄れ、蘆名氏配下の離反が相次いだ。しかし善五郎は一貫して蘆名氏方に付いて活躍した。
天正12年(1584)、大沼郡船岡館主である松本太郎行輔が蘆名盛隆に背いた際、耶麻郡松野村の勝(
すぐれ)次郎が松本氏に与したので、善五郎はこれを討ち取った。また翌13年(1585)、関柴村の松本太郎行輔が伊達政宗に内応し、伊達氏の武将である原田宗時・新田常陸らの率いる3,000余騎が北方(喜多方)地方に侵攻した際には善五郎は中目式部大輔や佐瀬源兵衛らと共に応戦し、撃退した。

天正17年(1589)、伊達政宗が蘆名氏を滅亡させて会津地方を手に入れた後、善五郎の名が見えないことから善五郎は討死したものと推測され、慶徳城も廃城になったものと思われる。
天正18年(1590)に政宗は慶徳因幡に北方新宮の地を与えているが、善五郎との関連は不明である。


 ■ 構成
本丸の規模は東西72m×南北83mで北側に幅16mの堀が存在し、大手口は北側にあった。
本丸の東には二ノ丸が面しており、東西54m×南北68mの規模で北側から東側にかけて土塁がめぐらされていた。二ノ丸の南に面した三ノ丸は東西65m×東西54mである。


 ■ 現況
現在本丸跡に慶徳小学校の敷地となっており、二ノ丸・三ノ丸跡はほとんどが水田や宅地となっている。
また堀跡の一部は道路となっている。

■ 本丸跡
慶徳小学校の敷地となっている。
■ 二ノ丸跡
本丸東側に位置する。
■ 本丸・二ノ丸間郭跡
土塁による若干の段差が確認できる。
■ 本丸北側空堀跡
現在は道路となっている。画像左側の本丸側道路脇に土塁跡が確認できる。
■ 北西側空堀跡
こちらは未舗装の道路となっている。
■ 本丸西側
数十cmの段差が確認できるが郭跡であろうか。





けいとくじょう
慶徳城