こみねじょう
小峰城
小峰城  訪問年月日  2006年5月4日
 別称  白河城
 所在地  福島県白河市郭内
 創築者  白川親朝
 主要城主  小峰氏・蒲生氏・上杉氏・丹羽氏・その他
 築城年  暦応3年(興国元・1340)
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸・北ノ丸
 遺構  石垣・土塁・水堀
 設置・復原物  三重櫓・前御門・説明板
 文化財指定  市指定史跡
 ■ 沿革
−白川結城氏の庶流 小峰氏−
暦応3年(興国元・1340)、白川宗広の嫡子である親朝は小峰城を築き、親朝の二男である朝常が小峰氏を起こした。白川氏とその庶流にあたる小峰氏は互いに連携し隆盛を誇ったが、永正7年(1510)、両家は対立し、白川政朝は小峰朝修を自殺させた為、一旦小峰氏は断絶した。

後に朝修の祖父である第5代直親の女が政朝に嫁ぎ、その孫である義親が小峰氏を再興した。
義親は天正年間(1573〜92)の初め、主家の白川義顕を追って自分が主家となったが、佐竹義重の重圧により義重の子である義広を養子に迎えて家督を譲る事となった。

その後の天正17年(1589)、伊達政宗の南下に伴いこれに服属したが、翌18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され、白川結城氏は13代にして滅亡した。

−蒲生氏・上杉氏の支城の時代−
同年、会津6郡・仙道5郡を与えられた蒲生氏郷が会津に入部すると、白川の地も氏郷の支配下に入り、氏郷は小峰城に城代として4万8千石で関右衛門一政、次いで町野長門守吉高を置いた。

慶長3年(1598)、会津に上杉景勝が転封されると城代として芋川越前守を城代とし、関ヶ原合戦の際には小峰城を改修して徳川家康の進撃に備えた。
戦後、会津は再び蒲生氏に与えられ、秀行は城代として3万7千石で町野左近氏吉を置き、氏吉は城下に新しい町割を敷いた。次いで蒲生忠郷の代には平野日氏が2万8千石で城代となるが、寛永4年(1627)、忠郷が没すると嗣子がいないため蒲生氏は改易となった。

−白河藩の居城として−
小峰城はその後、棚倉で5万石を領していた丹羽長重に10万石で与えられた。長重は毎日2,000人を動員して約4年の年月を経て小峰城と城下町の大改築を施し、白河城と呼ばれるようになった。
その後丹羽氏が二本松に転封されると、榊原氏・本多氏・奥平氏・越前松平氏・久松松平氏などの譜代大名が次々と入れ替わっている。
文政6年(1823)、阿倍氏が棚倉へ転封されると白河は幕府直轄となり、二本松の丹羽氏の預かりとなった。

明治元年(1868)、戊辰戦争の際には、奥羽の玄関口にあたる白河の地が攻防の中心地となった。
奥羽越列藩軍は会津藩家老の西郷頼母が大将となって必死に防戦した。しかし圧倒的な新政府軍の火力の前についに落城し、城の建物は全部焼失した。

−歴代城主の変遷−
寛永4年(1627) 寛永12年(1635) 丹羽氏 10万石
寛永12年(1635) 慶安2年(1649) 榊原 松平氏 14万石
慶安2年(1649) 天和元年(1681) 本多氏 12万石
天和元年(1681) 元禄5年(1692) 奥平 松平氏 15万石
元禄5年(1692) 寛保元年(1741) 越前 松平氏 15万石
寛保元年(1741) 文政6年(1823) 久松 松平氏 11万石
文政6年(1823) 慶応2年(1866) 阿部氏 10万石
慶応2年(1866) 明治元年(1868) 幕府直轄
明治元年(1868) 阿部氏(二次) 10万石
明治元年(1868) 明治4年(1871) 幕府直轄


 ■ 構成
小峰城は大観すると不正五角形の形をしている。
最高部を本丸とし、その周囲には帯郭および竹ノ丸を配している。そこから南方に二ノ丸、その南から東にかけて広大な三ノ丸が張り出している。

本丸には天守代用として三重櫓、北西に雪見櫓、南西に富士見櫓、本丸中門北に月見櫓(いずれも二層櫓)が配され、帯郭と竹ノ丸に二層櫓が1基ずつ、計6基の櫓が建てられた。
大手門は南に配され、東と西に各2ヶ所、北に1ヶ所の計6ヶ所の門が設けられ、いずれも桝形が設置されていた。


 ■ 現況
明治元年(1868)の戊辰戦争の戦火により石垣と水堀を残すのみであった。
昭和60年(1987)、白河市の市制40周年記念事業として三重御櫓の復原計画が立てられ、発掘調査が実施された。その発掘成果を基に木造による伝統工法が採用され、平成3年(1991)には三重御櫓が、平成6年(1994)には前御門が復原された。
現在は二ノ丸跡に集古苑という史料館が建ち、帯郭には白河バラ園が開かれている。

■ 太鼓門跡から本丸を望む
本丸南側の二ノ丸からの眺望。
■ 清水門脇水堀
本丸南側に位置する清水門西側の堀である。
■ 清水門脇水堀
こちらは東側である。
■ 清水門跡
二ノ丸から本丸へ至る門跡である。
現在は冠木門であるが、かつては二層の櫓門であった。
■ 本丸への道
清水門をくぐると本丸へ続く道が左右に分れている。
こちらは右の前御門に続く方である。
■ 三重櫓と前御門
画像向かって右に竹ノ丸と呼ばれる郭がある。
■ 竹ノ丸跡
前御門正面に位置する。
■ 本丸三重櫓と前御門
■ 本丸前御門
二階建ての櫓門である。平成6年(1994)に復原された。
■ 本丸御殿跡
前御門をくぐるとすぐに本丸御殿跡に出る。
■ 本丸多聞櫓跡
現在は石垣のみであるが、かつては多聞櫓があった。
■ 二ノ丸
本丸多聞櫓跡から二ノ丸を望んだところ。
■ 本丸三重櫓と前御門
本丸御殿跡から望む。
■ 本丸雪見櫓跡
本丸の北西隅に位置する。かつてはここに二層櫓があった。
■ 本丸雪見櫓からの眺望
■ 本丸富士見櫓跡
本丸の南西隅に位置する。こちらにも二層櫓があった。
■ 帯郭
本丸北側に位置する。
現在はバラ園となっている。
■ 本丸桜御門跡
清水門をくぐって左側を行くと本丸入口に桜御門が位置する。
規模は前御門より小さいが、石垣や枡形が良好な形で残っている。
■ 帯郭月見櫓跡
桜御門入口にある櫓台跡。ここにも月見櫓と称する二層櫓が建てられていた。
手前の小屋はバラ園の管理棟か。
■ 本丸南側石垣
清水門入ってすぐ正面にそびえ立つ石垣。
この上に本丸多聞櫓が建っていた。
■ 二ノ丸藤門跡
二ノ丸西側の入口に当たる。
現在はこの画像すぐ左に入口が設けられているため、この門は閉鎖されているようだ。
向かって右隣には石垣が築かれている。
■ 二ノ丸外周
白壁が続くが、かつてこのような造りであったかは不明。
三ノ丸は現在市街地化されている。
■ 地図