こうざしじょう
神指城
神指城 土塁跡遠望  訪問年月日  04年5月2日 / 06年5月3日 / 07年4月29日
 別称  −
 所在地  福島県会津若松市神指町
 創築者  上杉景勝
 主要城主  −
 築城年  慶長5年(1600)
 廃城年  慶長6年(1601)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸・北ノ丸
 遺構  石垣・土塁・水堀・礎石
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
神指城は上杉景勝が若松城より居城を移すべく造営を始めた城である。
しかし、完成を待たずして破却された。

−若松城の防備の限界−
慶長3年(1598)、上杉景勝は豊臣秀吉の命により、会津の地に120万石を与えられ入部した。
しかし、間もなく8月に秀吉が死去すると、景勝は次第に徳川家康と対立するようになる。さらに慶長4年(1599)、家康に睨みを利かせていた前田利家が没すると、いよいよ景勝と家康の対立は深刻なものとなり、景勝は領内の整備に勤しんだ。

その中、現在居城としている若松城は、城の南東に位置する小田山が近くにあった。この小田山から大砲によって砲撃される恐れがあるなど、若松城には防備に難があった。そのため景勝は新たに居城を築く計画を立てた。
初めは河沼郡北田城の地を候補に挙げたが、そこは水害の難があるので、若松城の北西3kmの地にある神指村を選定した。

−急ピッチの築城工事−
慶長5年(1600)2月、景勝は直江兼続に神指城の建設を命じた。
普請奉行は直江兼続、小奉行には大国実頼・甘粕景継・山田喜右衛門・清水権右衛門、割奉行には鐵(島倉)孫左衛門泰忠、材木奉行には満願寺仙右衛門が任じられた。

兼続は神指村を含む13の村を移転させて縄張りを始め、人足は領内から8万人(一説には12万人)を集めた。本丸は3月18日から、二ノ丸は5月10日から着工し、昼夜を問わず突貫工事により6月には早くも土塁や石垣を完成させている。しかし6月10日、突然工事は中止された。徳川家康の会津攻めが近付き、迎え撃つ途上にある白河城の改築が急がれたためである。

結局、家康は会津攻めを中止し、9月15日、関ヶ原合戦において石田三成率いる西軍と激突した。
その結果西軍は敗北し、上杉氏は米沢へ30万石に減封になり、慶長6年(1601)、完成を待たずして神指城は破却された。


 ■ 構成
本丸は長方形で東西約180m×南北約306m、高さ約10.5mで虎口は北・東・西にあり、本丸の周囲には水堀があった。
二ノ丸は本丸を囲むように東西約468m×南北約522m、高さ約7.5mで虎口は四方にあった。
三ノ丸はさらにその外周を囲んでいた。

地元では本丸の西側だけを二ノ丸と呼び、本丸の北側を北ノ丸、東と南を五百地と呼んでいる。周囲は西に阿賀川が流れ、三方は平地で遮蔽物がない平城であった。


 ■ 現況
現在城跡は本丸と二ノ丸跡の土塁の部分が残っているが、殆ど埋め立てられ水田となっている。
三ノ丸石垣の一部は神指小学校の敷地内に僅かに残っている。

■ 二ノ丸東北隅土塁跡
東側から望んだ所。
■ 二ノ丸東北隅土塁跡
上記画像の反対側、本丸方面より望んだ所。
■ 本丸跡石垣基礎石
ここより南方300mの地にあった基礎石で、昭和58年に二ノ丸跡であるここに移した。
■ 二ノ丸跡土塁
東北隅に残る土塁。
■ 本丸跡遠望
二ノ丸北東隅土塁より南方300mに位置する。
■ 本丸跡虎口か
画像は西側の入口。往時のものかは不明。
■ 本丸土塁跡
■ 本丸跡
一部土塁に囲まれている。
■ 本丸土塁跡
■ 如来堂
戊辰戦争において斎藤一が率いる新撰組隊士が立籠もったとされる。
慶応4年(1868)9月4日、新政府軍の攻撃を受け、隊士は全滅したといわれるが、数名が脱出に成功、生延びた。
■ 阿賀川
城域西側を流れる。
■ 三ノ丸跡石垣
神指小学校敷地内、国道49号線沿いにある。
画像右下に僅かに現存している石がある。