■ 沿革
三春城は戦国時代に田村地方を領していた三春田村氏の居城である。
−田村氏の紆余曲折−
三春城には田村氏3代義顕が永正年間(1504〜1521)の子年に守山より移ったとされ、永正元年(1504)か13年(1516)の頃であると思われる。その後田村氏は16世紀半ば、4代隆顕の代に田村荘・小野保・安積郡福原村を手中にし、5代清顕の代には東安達も勢力圏とした。
天正14年(1586)、清顕が嗣子の無いまま急死すると、家中は相馬派と伊達派に分かれて抗争したが、伊達派主導の下により田村一族の孫七郎宗顕が跡を継いで三春城主となった。
しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、宗顕は伊達政宗に制されて参陣できずに田村氏は三春領を没収され、三春の地は片倉景綱に与えられた。その後田村氏の旧臣らは政宗に従って岩出山に移った者・新領主に仕えた者・帰農した者などに別れたという。
−田村郡の押さえとしての役割−
翌年の天正19年(1591)、三春は会津領となり、蒲生氏郷の所領となった。蒲生氏の下で田村郡の城代となった田丸具直は須賀川城より三春城に居城を移したが、後に守山城へ移った。
文禄4年(1595)、蒲生氏郷は死去し、跡を継いだ秀行は宇都宮に転封となった。替わりに会津へ入部した上杉景勝は三春城には城主を置かず、守山城主が城代を兼ねた。
慶長6年(1600)、景勝が米沢に減封になると、再び会津は蒲生秀行の支配となった。田村郡城代には蒲生郷成が任じられ、郷成は後に守山城から三春城に移った。
寛永4年(には加藤嘉明が会津に40万石で入部すると、三春城は嘉明の三男である明利が3万石で入部し、さらに翌5年(1628)には松下長綱が入部、城の大改修を行った。この時に三春城は中世城館から近世城郭的性格に生まれ変わったともいえる。
正保2年(1645)に常陸国穴戸から秋田俊季が5万5,000石で転封された。
秋田氏はさらに改修を加え三層櫓を設けたが、天明5年(1785)の大火で城内の建物を全焼させ、以後本丸に建物を3棟設け、二ノ丸・三ノ丸を廃して西麓に御殿を造営して居所とした。
慶応4年(1868)、戊辰戦争の際に、新政府軍が隣の棚倉藩の棚倉城を落城させると、三春藩はいち早く奥羽越列藩同盟を脱退して降伏したため、三春城は落城を免れて明治維新に至った。
■ 構成
三春城は阿武隈山地西麓の丘陵地に位置し、その高低さは40〜80m程度である。
丘陵中央頂部に長方形状の本丸が位置し、石塁上に土塀をめぐらせていた。表門は南側に、裏門は北西側に位置し、裏門の奥には搦門が存在した。また、東西の各隅には三層隅櫓が存在した。
本丸の西側には一段低く二ノ丸が位置し、面積は本丸とほぼ同等の長方形状であり、西角には三層隅櫓が存在した。
三ノ丸は南側に位置し、やはり長方形状の石塁・土塀の構造である。さらにその東側に東郭が存在した。
■ 現況
現在は城山公園として整備されている。
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■ 三ノ丸跡標柱
竪堀を越えてしばらく進むと三ノ丸跡に至る。 |
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■ 三ノ丸跡
さらに奥。右手は本丸側の切岸である。 |
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■ 冠木門裏側
柵の裏側。後背には土塁が配置されている。 |
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■ 二ノ門跡
つづら折状の道が続き、最初に二ノ門跡が位置する。 |
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■ 三ノ門脇切岸
天然の岩盤が剥き出しになっており、さながら天然の石垣の様である。 |
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■ 二ノ丸跡
本丸跡より望んだところ。一番奥に三層櫓が存在した。 |
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■ 秋田氏慰霊碑
三春藩藩主であった秋田氏の慰霊碑である。 |
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■ 本丸石垣跡
本丸跡北西側部分。野面積の様である。 |
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