■ 沿革
−会津一の要害−
蘆名氏は当主が盛舜・盛氏の時代に全盛期を迎えた。
しかし当時、居城の黒川城は土塁のみの平城であったため、盛氏は隠居城を築くという名目で新たに防御機能に優れた城郭を築き、黒川城との機能分別を図った。そこで永禄4年(1561)、羽黒山の向かいの山に大規模な山城を築き始め、同11年(1568)に完成した。
しかし家督を譲った嗣子盛興が26歳で早世したため、盛興の後室である伊達氏の娘を養女とし、二階堂盛隆を婿として蘆名氏を継がせた。盛氏は後見人になるため黒川城に戻り、天正3年(1575)、向羽黒山城は廃城となったという。
■ 構成
向羽黒山城は、岩崎山もしくは白鳳山とも呼ばれる標高408.7mの山に築かれている。山の東側は急峻な崖でその下を阿賀川が流れ、反対の西側には城下町が置かれた。
本丸は主峰の頂部に位置し、東西約54m×南北約30mの広さであり、北側と南側に虎口跡が、また周囲には0.5m程の土塁が巡らされていた。北側には0.8m程高くなっており、櫓が建てられていたものと思われる。
二ノ丸は本丸北側に空堀を隔てて位置し、標高355mの平場である。広さは東西約30m×南北約60mの広さで、礎石の跡から多くの建造物があったと思われ、盛氏の居館もここであったと推測される。
三ノ丸はさらに北側に位置し、標高297.2mの山稜上を削られた場所で、主に馬場として使われた。
さらにここでは紹介しきれない程、その他郭が多く存在する。
■ 現況
現在城跡のある山全体が白鳳山公園として整備されている。
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■ 三ノ丸跡
三ノ丸は主に馬場として利用されたが、望楼や指揮陣屋なども建てられていた。 |
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■ 三ノ丸跡
城の中では最も広い郭であり、若干傾斜のある部分もある。
この画像はまるでゴルフ場のフェアウェイの様。 |
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■ 二ノ丸虎口跡
二ノ丸への入口。
結構段差がある。 |
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■ 二ノ丸跡
三ノ丸に比べれば少し狭い。かつては主に居住の場であった。 |
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■ 堀切・門跡
二ノ丸から本丸へ至る際の門が設けられていた。 |
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■ 本丸跡
標柱が建っている。
現在は木々が生い茂っており、結構狭く感じる。 |
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■ 本丸跡
かつては「詰の城」として、攻城戦の際は最後に立て籠もる場であった。
そのため急峻な斜面に守られ、天守櫓と思われる建造物も建てられていたようだ。 |
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■ 向羽黒山城 遠望
二つの山が向かい合っている。右手前が羽黒山、左奥が向羽黒山城。 |
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