なかむらじょう
中村城
中村城 本丸跡  訪問年月日  2006年5月5日
 別称  馬陵城
 所在地  福島県相馬市中村字北町
 創築者  中村氏
 主要城主  中村氏・相馬氏
 築城年  大永年間(1521〜28)
 廃城年  明治3年(1870)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  郭・土塁・石垣・空堀・水堀・外大手一ノ門
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  県指定史跡
 ■ 沿革
−紆余曲折を経て−
中村城は近世城郭として相馬利胤が築いたが、それ以前に中村氏が居城としていた。

建武2年(1335)、白川宗広は恩賞として宇多郡を与えられ、宗広は一族の中村広重を熊野堂城に配して支配させた。大永年間(1521〜28)、広重の子孫にあたる中村某は天神山に中村城を築き、居城を移した。
しかし城は黒木城主の黒木弾正信房に奪われ、信房は弟を置いて中村大膳義房と名乗らせた。当時、黒木氏は伊達氏に属していたため、相馬氏とは敵対することになる。

天文12年(1543)、相馬氏14代顕胤は相善原で信房・義房兄弟を討ち取って以後宇多郡を支配し、中村城には草野式部直清を城代として置き、中村氏を名乗らせた。しかし永禄6年(1563)、直清は黒木城代の青田信濃守顕治と共に伊達氏に寝返ったために相馬盛胤・義胤父子に討たれ、義胤の弟である隆胤を中村城代として盛胤は隆胤の後見として中村城の西館に移り住んだ。

天正18年(1590)、隆胤が伊達氏との戦いで戦死し、慶長7年(1602)に盛胤が病死すると中村城は一旦空城となる。
慶長7年(1602)5月、徳川家康は相馬義胤を関ヶ原合戦の際に味方しなかったとして所領を没収するとしたが、嫡子である利胤の懸命の再興活動により、10月に家康は相馬氏の本領を安堵した。そこで利胤は牛越城を不吉とし、小高城に居城を移した。

−磐城の名城−
慶長16年(1611)7月、利胤は木幡勘解由長清を築城奉行として普請にあたらせ、11月には完成し、12月に利胤が入城した。以後、中村城は相馬氏6万石の居城として明治維新まで続いた。
戊辰戦争の際には周囲の諸藩が奥羽列藩同盟に属したためやむなく参加したが、たまたま中村城内の火薬庫が暴発し、在城していた同盟軍が政府軍の襲撃と勘違いして退却したため政府軍に降って藩領は戦火から免れた。
その後、相馬氏は本領を安堵されたが、明治3年(1870)、新政府の命により廃城となり、城内の建物は全て破却された。


 ■ 構成
本丸は東西118m×南北112mの8,250uで、かつては西南隅に三層天守が築かれていたが、寛文10年(1670)5月、落雷によって焼失してしまい、その後再建される事は無かった。
本丸の大手口は東側に位置し、内側より二ノ門・一ノ門となっており、二ノ門は櫓門であった。

二ノ丸は東西南北の4ヶ所に別れ、本丸を囲むように配されている。本丸へ直接続いているのは東二ノ丸で、西側に一段高く枡形状の郭を擁しており、そこから廊下橋を通って本丸の大手一ノ門へ出る。
本丸の搦手は西二ノ丸へ続いている。東二ノ丸は藩主・一族・重臣の屋敷となっており、西二ノ丸は盛胤の隠居所であった。北二ノ丸には草木を植えていた。南二ノ丸は二ノ丸の内で最も広いく、大手門のある東三ノ丸に続いている。

三ノ丸は東と南・西の3ヶ所に別れており、東三ノ丸には大手門が配され、外側の一ノ門と内側の二ノ門があった。一ノ門は高麗門で、川越城の城門を模したと言われている。


 ■ 現況
現在本丸跡には相馬氏祖である師常らを祀る相馬神社が建てられ、西三ノ丸には相馬氏が下総から中村城へ入部するに伴って一緒に移転した妙見宮を祀る中村神社がある。
大手一ノ門は城内で唯一現存している建造物で県の重要文化財に指定されている。

■ 大手門前の通り
この道を進んだ正面に大手一ノ門がある。
■ 東三ノ丸跡 南側土塁と水堀
上記の大手門前の通り脇にある。
■ 大手一ノ門
中村城唯一の現存建造物であり、県の重要文化財に指定されている。
完成は慶安2年(1649)で、川越城の門を模して建てられたという。
■ 大手一ノ門裏
大手一ノ門をくぐるとすぐ右に曲がる枡形となっている。
この画像はその右側奥から大手一ノ門裏側を望んだところ。
■ 東三ノ丸跡
かつては通称「御厩(おんまや)」と呼ばれ、南二ノ丸より馬場が移された。
現在は駐車場となっている。
■ 大手二ノ門跡
大手一ノ門から続いている門跡である。現在は土塁のみが残る。
■ 中ノ門跡
大手一ノ門同様、枡形が設けられた門跡。
楼門造りで慶安元年(1648)に建てられたが、文政9年(1826)に取り壊された。
■ 中ノ門跡から東三ノ丸跡を望む
今度は左に曲がる枡形である。
■ 南二ノ丸跡
本丸南側に位置し、城内で最も広い郭である。
現在はグラウンドのような広場になっている。
■ 中門跡より東二ノ丸跡へ
東二ノ丸へ続く。
■ 東二ノ丸跡入口
上記画像奥の部分である。枡形が設けられている。
しかしこの石垣の大きな閉じられた跡がある穴の様なモノは何だろう???
■ 東二ノ丸跡
中館とも呼ばれ、本丸東側に位置し直接本丸と繋がっていた。
かつては藩主・一族・重臣の屋敷があった。
現在は野球グラウンドになっている。
■ 東二ノ丸跡から本丸跡へ
本丸東の大手門へ続く。
■ 本丸跡東側堀切
10m程の幅の堀があり橋で繋がれている。
■ 本丸跡石垣
野面積みの石垣で、中通地方の城では石垣はここ中村城と平城にしか見られないという。
■ 本丸跡大手門入口
この橋を越えると本丸一ノ門跡である。
かつては廊下橋であったという。
■ 本丸一ノ門・二ノ門跡
本丸の大手門にあたる。手前に一ノ門、続いて二ノ門があった。
■ 本丸跡
かつてはここに本丸御殿が、南西隅には三層天守が建てられていた。
現在は本丸御殿の礎石が残るのみである。
■ 相馬神社
現在本丸跡に祀られている相馬神社は明治13年(1880)に相馬氏の始祖、相馬師常を祭神として建てられた。
■ 本丸搦手跡
本丸南西部に位置する。登りきったところに搦手門があった。
■ 西二ノ丸跡及び本丸三層天守跡
画像左側手前の郭が西二ノ丸跡、奥の高い郭が本丸東南隅で三層天守が建てられていた。
寛文10年(1670)、落雷のため焼失した後、再建される事は無かった。
■ 本丸搦手入口
搦手であるが、現在は相馬神社の正面入口になっているようだ。
■ 相馬中村神社跡
現在は相馬中村神社となっているが、かつてこの奥に西三ノ丸が位置していた。
ちなみにこの神社では相馬氏が信仰していた妙見神が祀られている。
■ 地図