にほんまつじょう
二本松城
二本松城 復原箕輪門  訪問年月日  2004年5月1〜2日
 別称  霞ヶ城・白旗城
 所在地  福島県二本松市郭内
 創築者  畠山満泰
 主要城主  畠山氏
 築城年  応永21年(1414)
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  石垣
 設置・復原物  箕輪門・本丸石垣・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
二本松城は二本松畠山氏の居城である。二本松畠山氏の始祖である畠山国氏は、吉良定家と共に奥州管領として安達郡を二分して支配した。
畠山氏は当初は田地ヶ岡館に拠ったが、防御には適していないと考え、国氏の孫である満泰が応永21年(1414)、(一説には嘉吉年間(1441〜44))霧山の白旗ヶ峰に居城を築いた。これが二本松城である。
その後畠山氏は9代に渡ってこの城を居城とした。

−伊達輝宗 誘拐事件−
天正13年(1585)、畠山義継は伊達政宗に臣従したが、降伏を斡旋してくれた政宗の父輝宗に礼を申し述べるために参上した。その帰り、玄関前まで見送ってくれた輝宗を人質にしようとして失敗し、義継は輝宗と共に討死した。
これに怒った政宗は直ちに二本松城を包囲し、半年後の天正14年(1586)7月ついに落城し、義継の遺子である義綱は相馬氏などの仲介を経て会津へ逃れた。
その後政宗は片倉小十郎景綱、後に伊達成実を城代にした。

−若松城の支城から二本松藩の成立−
天正18年(1587)、豊臣秀吉の奥羽仕置によって会津に蒲生氏郷が入部し、氏郷は家臣の蒲生郷成、後に町野重乃・幸和父子を城代とした。また、葛西・大崎の乱や九戸の乱の際には二本松城は豊臣軍の前進基地の役割をし、豊臣秀次・徳川家康・浅野長政らの名だたる将が駐留している。

慶長3年(1598)、蒲生氏に替わって上杉景勝が会津に入部すると、景勝は城代として秋山伊賀守定綱・下条駿河守忠親らを置き、慶長5年(1600)、再び蒲生氏が会津に入部すると、蒲生秀行は城代として二本松城の東城(松森館)に梅原弥左衛門を、西城(新城館)に門屋助右衛門を置いた。
寛永4年(1627)、蒲生忠郷が没して蒲生氏が改易になると、下野国烏山より松下石見守重綱を5万石をもって入封し、翌5年(1628)、その子長綱のときに三春に移封され、三春より加藤嘉明の二男の明利が入城した。
寛永20年(1643)、会津の加藤氏の替わりに保科氏が入部すると、二本松は会津より切り離されて白河の丹羽光重に10万700石で与えられ、幕末まで丹羽氏の居城となった。光重は二本松入城の際、正保3年(1646)から慶安4年(1651)の6年間かけて近世城郭として築城した。

−戊辰戦争の悲劇−
明治元年(1868)、戊辰戦争の際には二本松藩は同盟軍側に属し、主力を白河城に集中させた。
しかし内応した三春藩が先導した新政府軍が間道を通って城に迫って来た。手薄になった二本松藩は残存の兵を城の各塁に配置したが、それでも足りずに12〜7歳の少年兵達まで駆り出して防戦にあたったが、奮戦も空しく落城した。その際の少年兵隊は62名出陣し、16名が討死にした



 ■ 構成
標高345mの通称白旗ヶ峰に築かれた山城である。
本丸は山の頂部に位置し、総石垣で北東隅に天守台を構え、東と西に櫓台を配して多聞で連結していた。しかし天守に関しての記録は無く、発掘調査でも建造物の跡は見つかっていない。
山麓の南側にも高石垣を用いて二ノ丸・三ノ丸を構え、二ノ丸を御住居屋敷として藩主の居所とし、三ノ丸に役所・会所を置いて箕輪門を築いて、門の前には千人溜を設けた。


 ■ 現況
現在、城跡は霞ヶ城公園となり整備されている。
本丸・二ノ丸・三ノ丸の郭や石垣は良好に残っている。しかし過去には本丸跡に宗教団体の天文台が建設されたこともある。また、昭和57年(1982)には箕輪門が再建されたが資料に正確なものではない。

■ 箕輪門前 千人溜跡
千人溜は兵を集結させる場所である。
現在は二本松少年隊の銅像が建っている。
■ 復原箕輪門跡
箕輪門は二本松城の大手口にあたる。
戊辰戦争の際に焼失したが、昭和57年(1982)に2億円の費用で再建された。
■ 箕輪門入口
箕輪門の名は、城下である箕輪村山中にあった樫を使用したからといわれている。
■ 箕輪門裏側
■ 箕輪門から三ノ丸へ
上から見たところ。枡形になっている。
■ 三ノ丸跡
かなり広い。
■ 三ノ丸跡
こちらは発掘調査中のようだ。
■ 本丸南側郭
段差がよく分かる。
■ 搦手門跡石垣
ここまで来るには結構登ることに。
■ 本丸へ
本丸のほとんどを石垣が占めている。
■ 枡形虎口
本丸北側にある。
■ 本丸跡
天守台・東櫓台・西櫓台があり、多聞で連結されていた。現在建造物は一切無い。
■ 天守台
天守台はあるが、天守は建てられなかったようだ。
■ 東櫓台
天守台から見たところ。画像左が東櫓台、画像中央が枡形虎口である。
■ 西櫓台
東櫓台と比べると、天守台からは少々離れている。
■ 本丸石垣上から城下を望む。
■ 傘松
「八千代の松」とも呼ばれるアカマツの老木。樹齢は約300年といわれ、1UPキノコのような形状である。
市の天然記念物に指定されている。
■ 藩庁門跡
市内から箕輪門を行く途中にある。
■ 地図