おばまじょう
小浜城
小浜城 本丸一ノ郭石垣跡  訪問年月日  2004年5月1日
 別称  下館
 所在地  福島県二本松市小浜
 創築者  大内内膳宗政
 主要城主  大内氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏
 築城年  文明年間(1496〜87)
 廃城年  寛永4年(1627)
 様式  山城
 構成  本丸・一ノ郭〜十八ノ郭
 遺構  石垣・土塁
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
小浜の地はかつてより田村・二本松・本宮・相馬への交通の要所であった。
文明年間(1496〜87)、大内氏は大崎氏に仕えていたが、後に安達郡塩松城主石橋義衡の家臣となってこの地に城を築いた。その際に旧領である若狭国小浜の名を取って小浜城と名付けたという。

−大内定綱の躍進−
永禄11年(1568)、大内定綱(定綱の父義綱の説もある)は、百目木城主である石川弾正らと共に、石橋氏四天王の一人に数えられた宮森城主である大河内備中を讒言して滅ぼす一方、主家の石橋尚義も滅ぼした。
天正4年(1576)、田村清顕に従って片平城主伊東大和守を攻略して片平城を与えられ、弟の親継を配置して片平親綱と名乗らせた。さらに天正11年(1583)、定綱は会津の蘆名氏や二本松の畠山氏と結び、田村氏に属していた石川弾正を攻めたが逆に敗北したが、その後来襲して来た田村勢を退け、大いにその力を周囲に知らしめた。

しかし天正13年(1585)、定綱が帰属をはっきりさせない事に業を煮やした伊達政宗の侵攻を受け、定綱は小浜城を捨て二本松へ走り、後に蘆名氏を頼った。 9月に入ると政宗は小浜城に入り下館と称し、父輝宗が入った宮森城を上館とした。また塩松城は白石若狭守宗実に与えて守らせ、安達地方を固めた。
その後、政宗は1年程在城した後米沢に帰城した。天正16年(1588)には定綱・親綱兄弟は政宗に帰参を許され、以後伊達陣営で活躍した。

−若松城の支城として−
天正19年(1591)、奥羽仕置によって安達郡は蒲生氏に与えられ、小浜城は若松城の支城として蒲生忠右衛門が城代に任じられた。
その後慶長3年(1598)に上杉景勝が会津に転封されると、引き続き小浜城は支城として山浦原吾景国、同6年(1601)には玉井数馬助貞石を経て寛永4年(1627)、廃城となった。


 ■ 構成
小浜城は標高約300mの山頂及び尾根を削平してつくられた郭で構成されている。
山頂には三角形状の郭があり本丸と思われ、北東には帯郭が存在した。南側にある虎口の一部には石垣が見られ、これは蒲生氏時代の遺構であると思われる。
本丸の西側には二ノ郭、東側には西京館と呼ばれる三ノ郭が存在する。本丸の北には四ノ郭があった。その他に〜十八ノ郭まであったようだ。


 ■ 現況
現在は下館山児童公園として整備されており、入口には石垣が遺構として残っている。
本丸跡には昭和56年(1981)に発掘調査が行われ、伊達政宗在城時のものと思われる御殿跡が出土している。

■ 本丸一ノ郭虎口跡
標柱の後ろに石垣が見える。様式から見て蒲生氏の時代のものと思われる。
■ 本丸御殿跡
昭和56年(1981)の発掘調査の結果、本丸一ノ郭東側(上段)にあると思われていた主建造物が、西側(下段)にあったと判明した。
■ 一ノ郭西側の郭
現在は畑として利用されている。
■ 一ノ郭・二ノ郭間の堀切
車一台通れるか通れないか位の幅である。
■ 二ノ郭跡
一ノ郭西側に位置する。
非常にはっきり段差が確認できる。後世のものではないと思うが・・・