■ 沿革
小高城は、行方郡に入部した相馬氏が別所館に続いて280年間居城とした城である。
−相馬重胤・光胤父子の無念−
嘉暦元年(1326)、相馬重胤は別所館から小高氏の堀ノ内館に居城を移した。重胤は足利尊氏が北朝方を率いて反逆を起こして南北朝時代に入るとこれに属し、建武3年(延元元・1336)、鎌倉で南朝方との戦いに敗れ自害した。
こうした中、重胤の留守を守っていた次男の光胤は父の命によって城内にあった貴船・多賀の両神社を小松荘二本松に移し、大改修を加えて戦乱に備えた。しかし光胤は北上してきた北畠顕家率いる南朝方の攻勢に敗れ、小高城も落城した。
この戦いで辛くも重胤の孫である胤頼は逃れることができ、後に小高城を奪還した。
−相馬氏の勃興−
その後、胤頼は北朝方として活躍し、相馬氏は着実に勢力を増していった。
戦国時代に入ると、15代盛胤は反伊達氏を貫いて輝宗・政宗父子と徹底的に抗戦し、天正6年(1578)には盛胤が隠居して嗣子義胤に家督を譲った後も度々伊達氏と小競り合いを続けた。
だが天正17年(1589)に摺上原合戦において伊達政宗が蘆名義広を破ると、いつしか政宗に抵抗するのは相馬氏のみとなり、義胤は苦境に立たされた。しかし翌年、豊臣秀吉の奥羽仕置において相馬氏は4万8千石を安堵され、大名としての地位を確立した。
慶長2年(1597)、義胤は居城を牛越城に移した。小高の地に築いた村上城が移転直前に火災で焼失し、そのため不吉として牛越城を修築して入城したためである。
−相馬藩成立−
慶長7年(1602)5月、徳川家康は去就定まらなかったとして佐竹氏を秋田に移し、蘆名氏・岩城氏・相馬氏らの領土没収が決定された。しかし義胤の嫡子である利胤の懸命の再興活動により、10月に家康は相馬氏の本領を安堵した。
そのため利胤は牛越城を不吉な城とし、再び小高城を居城としたが、慶長16年(1611)、中村城を修築して居城を移したため、小高城は廃城となった。
■ 構成
小高川北岸に位置し、南側に張り出した標高20m前後の段丘に築かれた城である。
本丸・南二ノ丸・北二ノ丸・馬場(俗称)の4つの郭で構成される。
本丸は東西約160m×南北約130mの広さで直角三角形の形をした平場で、出入口は東西南北にあるが大手口は東側にあったと思われ、北側は虎口を構えている。
■ 現況
現在、本丸跡には小高神社があり、野馬追いの際には野馬駆けの神事が行われてる。
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■ 大手口跡
小高城の入口は東西南北の4ヶ所存在した。
大手口はこちらの東側である。 |
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■ 大手口脇土塁
大手口向かって左川にある盛上がりである。土塁跡であろうか。 |
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■ 本丸跡
城内では最も広く、相馬野馬追の際には裸馬を素手で取り押さえ神社に奉納する「野馬懸」の神事が行われる。 |
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■ 小高神社
本丸跡にあり、相馬氏代々が信奉した妙見神が祀られている。 |
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■ 北口跡
本丸跡の小高神社社殿裏側に位置する。東口や南口に比べて狭いため搦手口だったのかもしれない。 |
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■ 小高城北側
北口を抜けた所。小高神社裏手にあたる。 |
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■ 南口
小高城石碑脇の階段を登る入口。現在は小高神社正面入口に当たるだろうか。
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