小田山城 復原冠木門  訪問年月日  2007年4月29日
 別称  −
 所在地  福島県会津若松市門田町大字黒岩字館山 他
 創築者  ?
 主要城主  蘆名氏
 築城年  文和3年(正平9・1354)か
 廃城年  永禄11年(1568)か
 様式  山城
 構成  主郭・その他郭
 遺構  郭・堀切・土塁・物見台
 設置・復原物  説明板・冠木門
 文化財指定  −
 ■ 沿革
小田山城は蘆名氏の居城である黒川城から約1.5km離れた小田山に位置し、黒川城の詰めの城として機能した山城である。
築城時期は不明であるが、一説に文和3年(正平9・1354)に築城されたとする。
永徳3年(1383)には蘆名直盛が小田山城を修築し、直盛の命を受けた平田明範・富田祺祐らが城外に郭を構築して翌至徳元年(元中元・1384)に完了させたといわれる。

永禄11年(1568)、蘆名盛氏が向羽黒山城を築くと、詰めの城としての機能は向羽黒山城に移った。そのため小田山城はその役目を終え、廃城になったものと思われる。

慶応4年(1868)、戊辰戦争の折に新政府軍は小田山に陣を構え、砲塁を築いて若松城を砲撃した。
当初本丸まで届かない砲弾もあったが、砲口を上に向けて発射するようになると砲弾が本丸まで届くようになり城内には多大な損害が出た。
皮肉にも詰めの城としての機能が敵方によって実証されることになったのである。


 ■ 構成
小田山城は標高371.7mの小田山と、青木山と称する奴田山に大きく分かれている。
主郭跡は小田山山頂に位置しており、主郭の南側には大規模な堀切と物見櫓跡が存在した。
郭は主郭を中心に北側に向かって三日月状の平場が25段に亘って存在し、高さ1m以下程度の土塁が設けられていた。


 ■ 現況
現在城域は小田山公園として整備されており、無数の郭跡を利用して道路が作られている。
山頂には丹羽氏墓所や会津藩家老の田中玄宰(はるなか)らの墓が存在し、北側の郭跡には歴代の蘆名氏当主の廟所がある。
また、虎口跡には冠木門と木塀が復原されている。

■ 蘆名家壽山廟跡標柱
登口付近に位置する。この近辺には蘆名氏歴代当主の廟跡が点在している。
■ 観音堂跡
かつてこの場所に文和3年(1354)、蘆名氏7代直盛の母である笹谷御前が観音堂を建立したといわれる。
しかし慶応4年(1868)の戊辰戦争の際に焼失した。
■ 西軍砲陣跡標柱
小田山北西側の登道途中に位置している。
■ 西軍砲陣跡標柱
上記画像を上から見たところ。
この場より薩摩・鍋島・松代・大村・土佐・岡山・加賀の諸藩が砲塁を築き、若松城に砲撃した。
画像左上の矢印が若松城天守。距離はほぼ1.5kmである。
■ 登道
かつて多数あった郭跡を利用して散策路を敷いている。
■ 復原冠木門
虎口跡に平成18年(2006)、当時この様な様式で小田山城にあったと推定される冠木門が復原・建設されている。
■ 虎口前平場
冠木門から望んだところ。登道の折り返しとなっている。
■ 冠木門裏側
柵の裏側。後背には土塁が配置されている。
■ 主郭東側郭跡
主郭の腰郭跡であろうか、一段低く配されている。
■ 主郭入口
土塁の切れ間より主郭の入口となる。
■ 主郭跡
丹羽氏墓所や会津藩家老の田中玄宰(はるなか)の墓が存在する。
■ 丹羽氏墓所
丹羽能教は会津藩士で軍事奉行・若年寄を経て家老へ昇進し、会津5代藩主の松平容頌公以下の4代の藩主に仕えた。
■ 主郭跡
丹羽氏墓所を上より望んだところ。さらに上に田中玄宰の墓所が存在する。
■ 田中玄宰の墓所へ
主郭最頂部へ至る。
■ 田中玄宰の墓所
田中三郎兵衛玄宰(はるゆき)は34歳にて家老となり、後に大老に任じられた。
天明の大飢饉で荒廃した農村や疲弊したした藩経済を「寛政の改革」にて立て直した。
■ 主郭最頂部
田中玄宰の墓の後ろから望んだところ。
■ 小田山城標柱
主郭裏の物見櫓跡へ至る。
■ 物見櫓跡への道
■ 物見櫓跡
北側への眺望が素晴らしい。
■ 物見櫓跡よりの眺望
市内が一望できる。
■ 堀切跡
上より見下ろしたところ。
■ 堀切跡
下から見上げたところ。
本来V字状に掘り込まれているが、江戸時代の石材採掘のためにかなり形状が変化している。





おだやまじょう
小田山城