おおもりじょう
大森城
大森城 本丸跡  訪問年月日  2004年5月2日
 別称  臥牛城・白鳥城・鷹峰城
 所在地  福島県福島市大森字城山
 創築者  伊達晴宗
 主要城主  伊達氏・片倉氏・蒲生氏・上杉氏
 築城年  天文11年(1542)
 廃城年  寛文4年(1664)
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・北館・南館・椿館
 遺構  土塁・空堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
大森城は伊達晴宗が天文11年(1542)に築城したとされる。
しかし山腹に正嘉2年(1258)・文永5年(1268)・10年・12年の供養塔が存在し、また『小手濫觴記』には信夫荘荘司の佐藤氏末裔である信夫十郎盛衡が大森に居住していたと記されており、鎌倉時代頃から既に何らかの城館があったものと思われる。

−天文の乱−
大森城には当初、晴宗の弟である伊達実元が在城していたが、実元の上杉氏への入嗣問題に端を発する「天文の乱」勃発において、実元の父である稙宗と兄である晴宗が争った。この時、実元は稙宗方に属したため、大森城は稙宗方の拠点となった。
この争いは稙宗が隠居することによって晴宗方の勝利となり、晴宗が伊達氏の家督を継いだ。晴宗は居城を西山城から米沢城に移したが、大森城は会津の蘆名氏や二本松の畠山氏らの所領に接した要衝であったために信夫郡における拠点として重要視された。

−政宗腹心の城−
天正12年(1584)、実元は嫡子の成実に大森城を譲って自らは隠居して八丁目城に移り、天正15年(1587)に死去した。
同年、政宗が伊達氏の家督を継いだが、翌年に政宗の父である輝宗が二本松城主の畠山義継の人質となり殺害される事件が起こる。そこで天正14年(1586)、政宗は大森城を拠点に二本松城を攻略し、畠山氏を滅ぼした。成実は、この戦いの軍功によって二本松の地を与えられたが、その後二本松城に居城を移すと替わりに片倉小十郎景綱が大森城に入城した。

−蒲生氏・上杉氏の支城−
続いて天正17年(1585)、政宗は相馬・蘆名氏を攻めるために大森城に入り、摺上原合戦によって蘆名氏を滅ぼした。しかし翌18年(1589)、豊臣秀吉の奥羽仕置によって政宗は会津・岩瀬・安積・信夫・伊達・長井の各郡を没収され、替わりに蒲生氏郷に与えられた。その内信夫郡5万石は氏郷の客将である木村吉清に与えられ、大森城に城代として入城した。その後吉清は文禄元〜2年(1592〜93)、居城を大森城から杉目城(後の福島城)に移り、大森城は一時空城になった。

慶長3年(1598)蒲生氏に代わって上杉景勝が入城すると、大森城は上杉家臣の栗田刑部小輔国時が城代として入城した。その後大森城は芋川正親・元親・綱親・高親の4代が続いたが、寛文4年(1664)、上杉氏が減封されるに及んでこの地は幕府直轄となり、大森城は廃城になった。


 ■ 構成
旧米沢街道と旧会津街道が交差する要衝の地の丘陵上にある。
本丸は一番高い平坦地に位置し、東から南・西側の斜面の一部に空堀跡が残る。
北端に二ノ丸(北館)が位置し、本丸南には帯郭(椿館)、南館が存在し、大手口は北東側に、搦手口が西側にあった。


 ■ 現況
現在本丸跡には大森山公園となっており、丘陵東側には大森城山東一号古墳がある。

■ 大森城入口
背後に見える山が大森城である。
■ 郭跡か
所々にこの様な段差が見られる。
■ 空堀跡
幅6m×深さ4m程の規模で、本丸の周囲を囲んでいる。
この石橋は公園化の際の物であろう。
■ 本丸跡入口
本丸跡は周囲より若干高くなっている。
■ 本丸跡
かなり広いが、画像中央部に見える様に少し段差があるようだ。
現在は展望台・説明板・忠魂碑などが建てられている。
■ 本丸からの眺望
市内がよく見渡せる。
■ 弁慶の足跡
妙見尊の石碑の裏であるが、石碑左上に一般的人間より大きな足跡のようなものがあるため、
「弁慶の足跡」と呼ばれている。
その他、櫓台を意識した展望台や、城山の南からの登り口右手の畑にあった大森城山東一号古墳が城内に移転・復原されており、城跡としてより総合史跡公園のような趣がある。
■ 周辺地図
かなり年季が入った地図だ。