■ 沿革
下総国結城を本拠としていた結城朝光は、源頼朝の奥州征伐で活躍し、恩賞として白河荘以下の白河郡・磐瀬郡・名取郡などを与えられた。しかし朝光は下総から代官を派遣して統治にあたった。
−白川結城氏の成立−
建長2年(1250)、朝光の孫である祐広は白川城を築いて白河郡に下向し、白川氏を名乗った。
祐広の子である宗広は武勇に優れ傑出した人物で、白川氏の所領を拡大し、さらには子の親朝と共に陸奥国府式評定衆にも任じられた。
−庶流小峰氏との連携と対立−
暦応3年(興国元・1340)、宗広の跡を継いだ親朝は隠居するに際し、白川城の白川結城氏を嫡子の顕朝に継がせ、二男である朝常には小峰城を築いて小峰氏を興させた。
その後、白川氏は庶流の小峰氏と連携して南奥羽のみならず北関東にも影響を与え、7代目の白川直朝の代には全盛期を迎えた。
しかし永正7年(1510)、両家は対立し、8代の白川政朝は小峰朝修を自殺させた。そのため朝修の父である直常は岩城常隆の支援を受け、政朝を追放した。
その後政朝の子である白川顕朝は直常の庇護により白川城から小峰城へ移り、白川城はその後廃城となったものと思われる。
■ 構成
100m程度の丘陵の五つの峰を利用して築かれた城である。
本城は南北80m×東西75mで主郭を擁し、主郭の西には二ノ郭があり、ここを通って主郭には北側から出入したものと思われる。
本城の北側には藤沢山に出丸が築かれており、数段の郭が見られ、さらに北北東にも出丸が築かれている。
主郭の北東には鐘撞堂があり、さらにその東側には倉庫跡といわれる郭がある。そして東端の平坦地には馬場が存在していたといわれる。
■ 現況
現在は主郭とその周辺が整備されている。
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■ 主郭入口
しばらくすると白川城の標柱と主郭入口の階段が見えてくる。
だが当時の主郭入口はこの裏側であったようだ。 |
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■ 空堀跡
主郭跡南側に位置する。白川城標柱向かってすぐ右側である。 |
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■ 二ノ郭跡
標柱の前は駐車城になっており、主郭の西側を覆うように二ノ郭が広がっている。 |
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■ 主郭入口
二ノ郭を通り、主郭北側が当時の入口である。
現在の入口の反対側にあたる。 |
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■ 主郭跡
南北80m×東西75mの広さの高台になっている。 |
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■ 主郭跡 櫓台跡か
主郭北側、入口入ってすぐの所に画像中央部のような土塁らしきものがある。
櫓台跡だろうか。現在は結城氏ゆかりの方々によってシダレ梅が植えられている。 |
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