たいらじょう
平城
平城 丹後沢  訪問年月日  2006年5月5日
 別称  磐城平城・龍ヶ城
 所在地  福島県いわき市平旧城跡
 創築者  鳥居忠政
 主要城主  鳥居氏・内藤氏・井上氏・安藤氏
 築城年  元和元年(1615)
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  平山城/梯郭式
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  石垣・土塁・水堀
 設置・復原物  −
 文化財指定  市指定史跡
 ■ 沿革
−岩城氏から鳥居氏へ−
戦国時代に磐城地方で権勢を振るった岩城氏は、関ヶ原合戦の際に佐竹義宣と共に去就を決めかねたため、慶長7年(1600)に磐城12万石を没収され、信濃川中島1万石に移封された。それに替わり鳥居忠政が下総国矢作4万石から10万石に加増のうえ入部した。

忠政は従来の居城である飯野平城は手狭であるため、新しい居城の建築に取り掛かった。初めは住吉の地に選定したが、そこは思わしくなかったため飯野八幡が鎮座していた赤目崎物見岡の地に眼をつけ、そこに平城を築城することにした。
慶長8年(1603)に普請を初め、完成までに12年を擁したという。その際、領内の人民を総動員し、時には盲人まで狩り出したといわれる。

−鳥居氏転封−
忠政は平城に21年間在城した後、山形へ24万石で移封された。 その後
元和8年(1622)、内藤政長が上総佐貫より7万5000石で入部し、6代120年余り在城した。
延享4年(1747)、井上正経が常陸笠間より6万石で入部し10年間支配した後、
宝暦6年(1756)、安藤信成が美濃国加納より5万石で入部し、7代在城して明治維新を迎えた。

明治元年(1868)戊辰戦争の際、平城は新政府軍の攻撃を受けた。東軍は寡兵をもって防戦したが、衆寡敵せず、支えきれなくなり自ら城に火を放って逃走し、城は灰燼に帰した。


 ■ 構成
本丸は物見岡の段端の最頂部に位置し、本丸西側には東から大手郭・大手外郭・内記郭と並んでいた。
本丸北側には水手郭と塩硝郭が置かれ、さらにその外側には水手外郭が位置していた。
二ノ丸・三ノ丸は水手郭の北側に位置していた。

本丸には天守の代用として三階櫓と呼ばれた外観二層の櫓があり、八棟櫓・塗師櫓・隅図櫓・枡形門櫓などの櫓があった。
塩硝郭には弥市櫓、水手郭には弓櫓・焔硝櫓、大手櫓には追手門櫓と追手門があった。

本丸北には丹後沢、南には城坂堀と呼ばれる弓状の水堀で囲まれていた。


 ■ 現況
現在は殆ど市街地化され、一部の櫓台の石垣と丹後沢が残っている。
本丸跡には龍ヶ城美術館が建てられている。
■ 本丸跡石垣
本丸跡にある石垣跡。
現在は頂部に明治天皇銅像が設置されている。
■ 本丸跡石垣
上記画像の向かって左側。石垣が見える。
この奥に丹後沢公園として水堀が残る。
■ 丹後沢公園
本丸側から見たところ。
■ 丹後沢
上記画像の向かって右側。本丸北部の内堀である丹後沢である。
奥の方で右側に弧を描いている。
■ 丹後沢
「丹後沢」の名の由来は、かつて鳥居忠政が内堀を築く際に大雨が降って3回も堰が崩れるという事が起きた。そこで菅波村の箱崎丹後守義明という家臣が人柱として犠牲になることにより完成した事からその名が付いたと言われる。
■ 丹後沢より本丸方面を望む
急斜面となっているのが分かる。
■ 龍ヶ城美術館
本丸跡に存在する。何となく天守風の建造物である。
どちらかというと美術館というより民俗資料館に近いかも。
■ 本丸跡
現在は個人所有の庭園となっているため入ることは出来ない、と思っていたらどうやら入れるようだ・・・
右側に土塁のような物が見える。
■ 本丸跡
ほとんどがこの様に市街地化されている。
■ 本丸より市内を望む
城跡のある丘陵の輪郭がよく分かる。
■ 本丸より市内を望む
いわき市街が一望できる。
■ 地図