■ 沿革
中世の牛越氏及び相馬氏の居城である。
文安2年(1445)、牛越上総介定綱が小高城の相馬高胤に対し謀反を起こした。その結果牛越氏は滅ぼされ、以後相馬氏の支城として城番を置いて管理した。
天正年間(1573〜92)には重臣である長野一露斎などが在城したこともある。
−小高城に続く相馬氏の居城へ−
慶長2年(1597)、相馬義胤は小高の地に村上城を築いたが移転直前に火災で焼失し、それを不吉として牛越城を修築して居城を移した。
しかし慶長7年(1602)5月、徳川家康は相馬義胤を関ヶ原合戦の際に味方しなかったとして所領を没収した。義胤は下野国の太田原晴清父子に牛越城を明け渡し、交際のあった三春城代の蒲生郷成を頼り、三春の大倉に移った。その後、嫡子である利胤の懸命の再興活動により、10月に家康は相馬氏の本領を安堵した。
こうした経緯により利胤は牛越城を不吉な城とし、再び小高城を居城として牛越城は廃城となった。
■ 構成
牛越城は丘陵上の東側に本丸が築かれ、本丸の東側に東館、西側には二ノ丸が置かれた。
本丸・二ノ丸の周囲には帯郭が配置され、二ノ丸の西側には千人沢と呼ばれる空堀がめぐらされていた。
さらにその西には妙見神を祀る妙見館が配置されていた。
■ 現況
現在本丸跡には市の貯水槽が建てられている。
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■ 外周
牛越城の本丸へは車一台通れるか通れないか位の道を進んで行く。
これは城の南側の外周である。 |
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■ 二ノ丸への道
左手の藪の奥が妙見館跡である。相馬氏ある所に妙見神あり、である。 |
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■ 千人沢跡
千人沢は二ノ丸入口にある自然の谷を生かしたような堀切である。
約数メートル幅で土橋で結ばれている。 |
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■ 二ノ丸入口
千人沢を過ぎ、左側の土塁上が二ノ丸である。 |
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■ 本丸跡入口
二ノ丸を左手に進むと貯水槽のあるところが本丸跡にたどり着く。
この画像左手も二ノ丸である。 |
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■ 本丸跡
本丸跡へは入れないため柵から覗いたところ。
奥に土塁のようなものが見える。 |
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