わかまつじょう
若松城
若松城 復原天守  訪問年月日  2004年5月3日 / 2006年5月3日
 別称  東黒川館・小高木館・黒川城・鶴ヶ城
 所在地  福島県会津若松市追手町
 創築者  蘆名直盛
 主要城主  蘆名・伊達・蒲生・上杉・加藤・松平氏
 築城年  至徳元年(1384)
 廃城年  明治7年(1874)
 様式  平山城
 構成  本丸・北出丸・西出丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  石垣・土塁・水堀
 設置・復原物  復原天守・説明板
 文化財指定  国指定史跡
 ■ 沿革
若松城はかつて黒川城と呼ばれ、蘆名氏の居城であった。

−蘆名氏の会津下向−
文治5年(1189)、奥州征伐の功によって三浦氏一族である佐原十郎佐衛門尉義連は会津の地を恩賞として賜った。しかし実際に会津に下向したのは康暦元年(天授5・1379)、7代蘆名若狭守直盛の時である。
初めに幕内(若松城の西方約3Km)に3年、古館(若松城の西北方約2km)に2年滞在した後、至徳元年(1384)にこの地に館を築き、東黒川館と称して蘆名氏の居城とした。
東黒川館は初め小さなものであったが、天文7年(1538)に焼失し、同12年(1543)に大規模に修築されて規模を改め、その後は黒川城・小高木(小田垣)城と呼ばれた。

−伊達政宗の入城−
天正17年(1589)、摺上原で蘆名義広が伊達政宗によって敗れると、政宗が居城として入城した。
この際家臣たちが「このような小さく粗末な城では外聞も悪いから修築するように」と進言したが、政宗はこの地に留まるつもりは無いと却下したため、南奥羽の要の城としてある程度の規模は整っていたものと思われるが、詳細は不明である。

−蒲生氏郷−
天正18年(1590)、小田原城の北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、秀吉は奥州に向かって出発し、黒川城に入った。そして政宗から没収した会津4郡と仙道4郡の地約73万石(文禄検地で91万9千石)を蒲生氏郷に与えた。

文禄元年(1592)、氏郷は家臣の曾根内匠に命じて黒川城を大改修し、この時に二ノ丸・三ノ丸の郭や馬出を配置した。さらに堀の整備をするとともに、翌2年(1593)、秀吉の大坂城にならい、本丸中央に金箔瓦で葺かれた黒い七層の天守や走長屋を築いた。
また、黒川の名を故郷に因み若松と改めて、町割を整備し現在の若松城下町の基礎を形成した。

−上杉景勝−
文禄4年(1595)、氏郷が急死すると、氏郷の嗣子である秀行は幼少である事を理由に慶長3年(1598)に宇都宮に移された。その替わり越後から120万石で上杉景勝が転封されると、景勝は南東の小田山が城に近く、ここを抑えられると防備に難があると考えて若松城西方に神指城の建築を命じた。

しかし慶長5年(1600)、関ヶ原合戦で勝利した徳川家康によって景勝は会津の地を追われ米沢に移り、慶長6年(1601)には再び蒲生秀行が60万石で入封したが、その子・忠郷が寛永4年(1627)に痘瘡で病死し、嗣子が無かったため蒲生氏は断絶となった。

−加藤嘉明−
その後伊予松山より加藤嘉明が40万石で入封する。寛永16年(1639)、嘉明の子・明成により、西と北の馬出が石垣を使った大規模な出丸に改められ、他にも石垣を築き、空堀は水堀に変えられた。さらに慶長16年(1611)、地震によって傾いた天守を白い五層に改築して、現在の若松城の形となった。明成はこの後、領地返還という形で改易となるが、この改修も要因の一つといわれる。

−奥羽の抑え 保科正之−
この様に頻繁に城主が変わったが、最終的には徳川2代将軍秀忠の庶子である保科正之が出羽山形より23万石で入封された。その後、保科3代正容の時、将軍の命により松平と改姓し、以後松平氏は220年以上徳川親藩として奥羽の要となった。

明治元年(1868)の戊辰戦争では旧幕府軍と新政府軍との戦いの場になり、上杉景勝が最大の弱点と指摘した小田山の頂上から当時最新式のアームストロング砲により猛撃を受けたが、約1ヶ月の籠城においても天守閣は崩れず、建物の焼失も無く戦火に耐えたまま開城となった。
その後若松県庁となっていた本丸御殿以外の建物の取壊しが明治2年(1869)に始まり、明治7年(1874)には全ての建造物が破却された。


 ■ 構成
本丸はかなり広く、外周をめぐる塁上に干飯・月見・茶壷・弓・北西隅・鐘之・塩蔵之内の7基の二層櫓が配置されている。中央には天守を置き、その両側に走長屋を配置し、本丸南東3分の2を区画し、本丸御殿を配置した。
本丸の周囲には北出丸・西出丸・二ノ丸で囲み、二ノ丸の外側には三ノ丸が置かれてそれぞれ水堀と土塁によって守られている。北出丸と西出丸はそれぞれ二つの門と2基の二層櫓を建てた。


 ■ 現況
太平洋戦争後、競輪場になっていたり荒れるがままであったが、昭和40年(1965)に加藤氏時代の五層天守閣が復原され、ついで黒鉄門・走長屋も復原されている。
平成13年には南走長屋と干飯櫓が復原された。

本丸・二ノ丸・北出丸・西出丸は現在国指定史跡として観光客で賑わっている。
三ノ丸跡は福島県立博物館、総合運動場の敷地となり、外郭は市街地化されている。

■ 二ノ丸入口
三ノ丸から二ノ丸への入口である。
■ 二ノ丸東門跡
二ノ丸側から三ノ丸を望んだところ。
したがって三ノ丸入口となる。
■ 三ノ丸空堀跡
本丸周囲の堀は水堀だが三ノ丸は空堀となっている。
それでもかなり大規模な空堀である。
■ 二ノ丸跡標柱
二ノ丸は現在テニスコートになっている。
■ 本丸廊下橋
画像中央に頭だけ出しているのが天守である。
本丸と二ノ丸を繋ぐ橋であり、攻め入られた場合にはこれを切り落として敵の侵入を防ぐ目的があった。
■ 本丸埋門跡
蒲生氏郷の時代は大手が東にあったため表門であったが、加藤嘉明の時代には裏門となった。
■ 本丸跡
広大な本丸跡である。
■ 本丸大広間跡
本丸の天守東側に位置している。往時はここに多くの建造物が建てられていた。
■ 本丸対面所跡
■ 五層天守(復原)
加藤氏時代の五層天守は戊辰戦争により損傷著しく取壊されてしまったが、昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート製で復原された。
天守は天守台の北側約3分の2に寄って建てられており、南側が空いている。これは七層の天守を五層に改築したためこの空間が出来たと考えられる。
■ 天守と走長屋・鉄門
走長屋で区切られた本丸を繋ぐ門で、扉や柱が鉄で覆われていたため鉄門(くろがねもん)と呼ばれる。
■ 本丸鉄門
本丸西側の帯郭側である。これをくぐると本丸大広間である。
■ 本丸南走長屋・干飯櫓
干飯櫓とそれに繋がる南走長屋は平成13年に復原された。そのため瓦の色が天守や走長屋とは異なるようだ。
■ 天守より走長屋・干飯櫓を望む
天守からは走長屋を通じて干飯櫓へ通じている。
■ 本丸御三階跡
本丸東に位置する三層櫓の石垣である。城内の他の櫓とは趣が異なり、密談時などに使用された。
櫓自体は市内の阿弥陀寺に移築されている。
■ 月見櫓跡
普段は武器が収められていた櫓であったが、月見の場所として絶好であったため月見櫓の名が付いた。
また物見櫓や横矢掛としても重要な櫓であった。
■ 鐘撞堂跡
時守を置いて鐘を撞き、時を知らせていた堂跡である。その鐘は延享4年(1747)、若松の鋳工、早山掃部介安次らの作として知られている。
戊辰戦争の際にはここに砲火が集中し、時守が次々と斃れる中、開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。
■ 蔵と水路跡
帯郭側から本丸入口にあたる鉄門の近くにある。この蔵が建っていることによって、北出丸や西出丸方向から直接鉄門に至らないように枡形が組まれていた。
■ 本丸太鼓門跡
北出丸から本丸へ続く門であり、大太鼓を備えた多聞櫓が建てられていたため太鼓門と呼ばれた。
藩主の登城や緊急事態の際に鳴らされたという。
■ 本丸太鼓門武者走跡
大手門の渡櫓へ簡単に昇降出来るようにV字型に階段が作られている。
■ 北出丸大手門跡
寛永16年(1639)、加藤明成のときに北馬出を北出丸に造り変え、それまで東の二ノ丸にあった大手門をこの北出丸に移した。
そのため北出丸は攻防の際には最も重要な位置を占め、城の生命線でもあった。
北出丸に侵入した敵は、本丸・西出丸・二ノ丸の三方向から殲滅することができたので「鏖丸(みなごろしまる)と呼ばれた。
■ 西出丸大手門跡
西出丸は北出丸と同じく加藤明成が西馬出を造り変えた郭である。
北側の門が搦手門であり西大手門と呼ばれ、南の門は内讃岐門と呼ばれた。
■ 西出丸中門跡
西出丸から本丸に続く門であり、枡形が設けられている。
■ 西出丸讃岐門跡
■ 西出丸西北櫓跡
■ 西出丸と水堀
国道118号線から西出丸を望んだところ。
大規模な水堀である。
■ 地図
本丸を中心に、左側の郭から時計回りに西出丸・北出丸・二ノ丸である。二ノ丸右には三ノ丸であり、現在遺構はほとんど残っていない。
■ 甲賀町口門跡石垣
若松城への入口である門の一つである。
当時は全部で16ヶ所あったとされ、この甲賀町口は大手門として他の門より規模が大きかったとされる。
■ 御三階
明治3年(1870)5月に阿弥陀寺に移築された。
数奇屋風楼閣状の建物で、内部は四階建であり、三階部分は天井が低く人が立つことは出来ない。
一階から二階へ通じる階段は、跳ね上げ式となり、四階へは上ることが出来ないようになっている。