あひょうじょう
安俵城
安俵城 水堀跡  訪問年月日  03年5月17日 / 08年4月26日 / 09年4月18日
 別称  −
 所在地  岩手県花巻市東和町安俵
 創築者  小原政継
 主要城主  小原氏・中野修理直康・原体主膳
 築城年  応永7年(1400)
 廃城年  天正20年(1592)
 様式  平城
 構成  一ノ郭・二ノ郭・三ノ郭・城内町
 遺構  郭・土塁・空堀・水堀
 設置・復原物  説明板・標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
安俵城は坂上田村麻呂により築城されたという伝承が残るが、その確証は定かでは無い。
確実な所では、谷内の丹内山神社にある室町時代の棟札に「安俵玄蕃頭平義重」という名が残されており、その頃からこの地は安俵氏の支配下にあったものとされる。

−和賀氏の重臣・小原氏の居城−
安俵氏は和賀氏の重臣である小原氏と同族であるとされる。小原氏の出自は不明であるが、在郷の豪族であるとも、和賀氏に従って入部した一族であるともされている。
小原氏は当初、狭良城(更木城)に移住したが、小原氏の初代・義郷の代には倉沢城に移住した。その後、2代・政継は応永7年(1400)、安俵城に居城を移した。

−和賀氏の没落−
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置において主家である和賀氏が所領没収となると、小原氏10代・忠秀もこれに従って追放された。小原氏が去った後、この地は南部氏が領有する事となり、安俵城には南部氏の家臣・中野修理直康(九戸政実の弟)が城代となって管理したが、天正20年(1592)に破却された。

その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、南部領内にて和賀一揆が勃発した。これは伊達政宗が和賀氏旧臣を煽動し、和賀氏旧領にて蜂起させたものとされ、この一揆において忠秀は旧主・和賀忠親に従って、かつて江刺氏の家臣であった原体主膳が守る安俵城を攻撃した。
しかし、あえなく一揆は南部勢により鎮圧され、翌慶長6年(1601)に和賀忠親と共に伊達領の仙台にて死去した。その死は自害とも、一期の扇動の発覚を恐れた政宗による謀殺ともいわれる。


 ■ 構成
安俵城は土沢の南1kmの地、比高7mの丘陵上に位置する。
城域は大きく南北二つに分けられ、北側半分は連郭式に一ノ郭・二ノ郭・三ノ郭、と南北に区切られている。
それぞれの郭は堀によって囲まれており、一部には土塁も利用されている。
南半分は城内町と呼ばれ、城下町が形成されていたものと思われる。


 ■ 現況
現在は住宅地となっているが、当時の堀跡や土塁の一部が現存しており、当時の区画が偲ばれる。

■ 三ノ郭南側堀跡
画像左手の高台が三ノ郭。右側が城内町である。
■ 三ノ郭南側切岸
2m程の比高である。
■ 三ノ郭
最も南に位置する郭跡である。
■ 二ノ堀跡
画像左手の二ノ郭、右手の三ノ郭を区切る堀跡である。
■ 二ノ堀跡
三ノ郭中心部から西側を望む。
■ 二ノ堀跡
東側より望んだところ。
■ 二ノ堀跡
一部水堀の遺構が残っている。
■ 東側土塁跡
二ノ堀すぐ脇に残る土塁跡。
■ 二ノ郭
一ノ郭と三ノ郭に挟まれた郭である。
■ 二ノ郭土塁跡
中心部より東側を望んだところ。
■ 一ノ堀
一ノ郭と二ノ郭を区切る堀跡。
■ 一ノ堀
東側より望んだところ。
■ 一ノ郭
北端に位置する。構造的に見てかつての主郭であったと思われる。
現在は中心部に館上神社・宗像神社が祀られている。
■ 一ノ郭北端
堀跡が道路となっている。
■ 一ノ郭土塁・堀跡
一ノ郭北西側に残る遺構。内側に土塁が残り、外側に堀跡が廻らされていた。
■ 一ノ郭土塁跡
■ 東側外周
■ 西側外周
最も西端に位置する。
■ 城内町
三ノ郭南側に位置する。