あいさりじょう
相去城
相去城  訪問年月日  2003年4月29日 / 2008年4月5日
 別称  鶴野城
 所在地  岩手県北上市相去
 創築者  −
 主要城主  相去氏
 築城年  −
 廃城年  −
 様式  山城
 構成  主郭・帯郭
 遺構  郭・土塁・空堀
 設置・復原物  標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
相去城の創建時期は不明であるが、相去氏の居城と想定される。
相去氏の詳細は不明であるが、和賀氏家臣の名籍の中に700石の知行で名が残っている。

−和賀氏の南側境目の地・相去−
永徳2年(弘和2・1382)に黒岩城主・和賀左近将監の領知をめぐる鬼柳式部大夫擁立のための一揆同心状に相去安芸守の名が見え、この頃より相去氏の存在が知られている。また明徳2年(元中8・1391)には、それまで江刺郡に属していた会佐利郷(相去村)が和賀郡の鬼柳伊賀守の所領となった。このため、鬼柳伊賀守と相去氏とは何らかの関係があったものと思われる。
文明2年(1470)、和賀氏と江刺氏の間に抗争が起き、翌文明3年(1471)年には和賀氏と葛西氏が相去の地で合戦するに及んでいる。また、文明8年(1476)には和賀氏が金ヶ崎良建を殺害するなどし、相去の地は和賀氏の南の境界線となっていた。

−相去城の登場−
相去城の存在がはっきりするのは永禄8年(1565)の事であり、胆沢郡の西根城主である新渡部摂津守頼長と柏山(伊沢)伊勢守明吉が対立し、頼長が相去城で自害している。
また、『和賀系図』には天正18年(1590)の和賀氏滅亡の際の記録の中で、鬼柳伊賀守の長男・相去清三郎を和賀氏の名代として小田原参陣中の豊臣秀吉の下へ派遣したという記述が見える。

しかし、この頃の相去城主は相去安芸守であるとされ、安芸守は鬼柳氏の一族とも柏山伊勢守明好の家臣ともいわれるが定かではない。いずれにせよ、同年の和賀氏の所領没収に伴い相去城も廃城となったものと思われる。

−南部氏と伊達氏の境界抗争−
和賀氏が滅亡すると、和賀氏の所領であった和賀郡は南部信直に与えられ、信直は「和賀氏の所領は全部南部氏に安堵された」と認識し、和賀氏の所領であった金ヶ崎の西根までの地を自領と主張した。一方、葛西氏旧領と胆沢郡・江刺郡を安堵された伊達政宗は「江刺郡である相去は自領である」という認識であった。そのため、ここに南部氏と伊達氏との間で境界争いが発生した。
結局、幕府の裁定では結局昔から江刺郡であった相去や六原・稲瀬・口内などが仙台領に認定された。

−相去という地名に関する伝承−
かつて南部氏と伊達氏が藩境の確定で揉めていた際、同一時刻にお互いの本拠より「午」に乗って出発、遭遇した所を藩境とする確約を結んだ。これを南部藩側は「牛(うし)」と読み、伊達藩側は「午(うま)」と解した。
そのため牛に乗っていた南部藩側は大いに遅れ、結局従来の領土より大きく南部藩側に食込んだ相去の地で遭遇したため、南部氏はかなりの領土を失うこととなったという。この「両者が会い、そして去る」という事から「相去」という地名が生まれたという伝説が残る。
この一件を伊達藩側は「南部藩の間違い」とし、南部藩側は「伊達藩が騙した」と伝えている事が多い。
だが結局は伝承の域を出ないものである。


 ■ 構成
西根段丘の比高30mの東端に位置し、全体の面積は約40,000uである。
北東に位置する主郭を中心に周囲に腰郭を擁し、西側に空堀をめぐらせていた。主郭は一辺100mの方形であり、幅約6〜8m、深さ約2〜3mの空堀で囲まれていた。
大手口は南側に位置していた。


 ■ 現況
現在、洞泉寺の南側の裏山一帯が相去城跡である。
城域のほとんどは山林・畑となっているが、一部の郭などの遺構が残っている。

■ 入口
北側、洞泉寺側よりの入口である。かつての搦手口か。
■ 北側切岸
段差が確認できる。
■ 堀切跡か
■ 腰郭
主郭北側の腰郭跡。
■ 主郭
頂部に位置する。
■ 腰郭
主郭東側の腰郭跡。
■ 東側
登道となっているが、後世のものであろうと思われる。