あねたいじょう
姉帯城
姉帯城 戦没者供養塔  訪問年月日  2005年4月29日 / 2015年11月22日
 別称  −
 所在地  岩手県二戸郡一戸町姉帯字川久保
 創築者  −
 主要城主  姉帯氏・野田氏
 築城年  −
 廃城年  天正20年(1592)
 様式  山城
 構成  東郭・西郭
 遺構  土塁・空堀
 設置・復原物  説明板・慰霊碑・東屋
 文化財指定  −
 ■ 沿革
姉帯城は九戸南部氏の一族・姉帯氏の居城である。
姉帯氏は南部氏16代助政の子息が姉帯小次郎を称したのが始まりとされ、姉帯の地に500石の他、飯岡(盛岡市)に1,000石の領地を持っていた。また、九戸政実の祖父である九戸修理信実の弟である兼実が姉帯蔵人を名乗って姉帯氏を継いだ事により、天正期には九戸氏とは繋がりも強かったものと思われる。

−姉帯一族の意地−
天正19年(1591)、豊臣秀吉は南部信直の「九戸政実反逆」の訴えに対し、九戸氏討伐の軍を差し向けた。当時の姉帯城主は姉帯大学兼興で、九戸城攻撃に向かう豊臣勢を迎え撃つため一族郎党や近隣の諸豪族らと共に姉帯城に籠城した。

豊臣勢は蒲生氏郷が率いる2万8000人・十三段構えの陣であったのに対し、籠城する姉帯勢は寡兵200余人をもって応戦した。兼興は百倍以上の敵を相手に善戦したが奮戦むなしく落城、兼興や弟の五郎兼信、兼興の妻である小滝御前など、主だった者の大半が討死した。
一説には、姉帯城落城の折に兼信の幼子が乳母に匿われて金田一村まで逃げ延び、その後に小林氏を称して慶長14年(1614)に秋田へ移ったといわれる。

落城後の天正19年(1591)8月、姉帯城は一戸南部氏の一族である野田氏が入城したが、翌・天正20年(1592)6月に破却された。


 ■ 構成
姉帯集落から南東1kmの山地に位置し、馬淵川に面する南側は50mを超える断崖で、北側も自然の急斜面となっている。
城は大きく分けて2つの郭から成っており、西郭は130m×60m、東郭は120m×100mの面積である。両郭の間は空堀で隔てられており、空堀の深さ・幅は20m程度で西郭側には幅2〜3m、高さ3.5mの土塁が伴っている。また東ノ郭の東端には二重堀切が設けられている。


 ■ 現況
現在姉帯城は発掘調査の結果を城跡の片隅に展示しており、とても良く整備されている。

■ 馬淵川
姉帯城の脇を流れる。川を越えて直接城に迫ろうとしてももすぐに断崖があり、かなりの要害である。
■ 姉帯城入口
馬淵川を渡ると入口がある。
■ 西ノ郭入口
ここまで城の北側をぐるりと迂回してきた事になる。
急勾配を登ると西ノ郭である。
■ 西ノ郭跡
整備が行き届きかなりの広さである。
この画像中央奥に供養塔があり、その向こうが東ノ郭である。
■ 西ノ郭と東ノ郭間の空堀
幅・深さ共に20mもあるといわれるが、現状の深さは5〜6m程度であろうか。
 
■ 西ノ郭と東ノ郭間の空堀
上記画像の反対側。確かに幅は20mあろうかと思われる。
 
■ 東ノ郭
西ノ郭に比してこちらは未整備であり、藪に覆われている。
 
■ 東端二重空堀
城域の東端に位置する二重空堀。
東ノ郭より見下ろしたところ。
 
■ 東端二重空堀
上記画像の二重空堀の堀底。
西ノ郭〜東ノ郭間の空堀よりは若干規模が小さいが遺構が明瞭に残る。
 
■ 東端二重空堀
二重空堀の東側。西側より一回り規模は小さいようである。
 
■ 城域東端
二重空堀の東側。全くの未整備である。
■ 地図