■ 沿革
花巻城はかつて鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、稗貫氏の居城であったとされる。
−稗貫氏の居城−
前九年合戦の際における安倍頼時の城柵と伝えられるが、これには異論もあり確証は無い。
戦国時代に入ると鳥谷ヶ崎城は稗貫氏の居城となったが、その始まりは諸説あり、
「源頼朝に稗貫郡を賜り、この地に入部した」
「永禄2年(1559)、小瀬川城から移った」
「享禄年間(1528〜32)に十八ヶ城(本館)から移った」
などとし、はっきりしない。
史料にはっきりとこの城が記されるのは『稗貫状』である。これによると、永享8年(1436)の和賀氏の大乱において、南部勢を支援する葛西勢配下・薄衣氏が十八ヶ城を攻撃する際、ここに陣を置いたという。従って稗貫氏の鳥谷ヶ崎城入城はそれ以降ということになる。
−稗貫氏の一揆−
天正18年(1590)、稗貫氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため所領を没収され、鳥谷ヶ崎城には豊臣秀吉の代官である浅野長政の家臣、浅野庄左衛門重吉が城代として置かれた。
一方、没収された稗貫氏の当主は和賀氏から養子として入った稗貫孫次郎広忠であった。広忠は弟の和賀薩摩守義忠と共に一族を集め、一揆を起こした。一揆勢は浅野氏の家臣・後藤半七の守る二子城を落とし、鳥谷ヶ崎城も奪還した。
しかし翌天正19年(1591)、豊臣秀吉は軍勢を遣わし、九戸城攻撃の前哨戦として二子城を攻撃し、二子城は難なく奪還された。それに続き、まもなく鳥谷ヶ崎城も落城し、広忠は大崎氏を頼って落延びていった。
−北信愛の入城と和賀一揆−
天正19年(1591)、鳥谷ヶ崎城には城代として北秀愛が8,000石で入城した。秀愛は鳥谷ヶ崎城を花巻城と改称し、新たに城下町も整備した。慶長3年(1598)、秀愛が死去すると、代わって秀愛の父・北信愛が城代となった。
しかし慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において、南部氏が出羽国の最上氏救援のため出陣中の間隙を狙い、和賀義忠の子である忠親が一揆を起こした。一揆勢は稗貫氏の重臣である根子氏を先陣として花巻城を取り囲んで三ノ丸・二ノ丸へと侵入したが、北信愛の懸命の防戦により攻撃は難航した。一方、花巻城側は信愛の養子である北十佐衛門の来援により勢いを盛り返し、一揆勢を撃退した。
その後、一揆勢は敗退を重ね、最後に岩崎城に籠もったが、翌・慶長6年(1601)に岩崎城も落城し、和賀一揆は鎮圧された。
−近世城郭として−
一揆鎮圧後、信愛は花巻城と城下町の整備に努め、慶長18年(1613)8月に91歳で死去した。
これにより南部利直は二男・彦九郎政直に和賀・稗貫郡から2万石を与えて花巻城主に任じた。政直は花巻城を近世城郭として大改修し、岩崎城・土沢城と共に仙台藩との藩境の警備に当たらせた。
その後、花巻城は幕末まで存続したが、明治2年(1869)廃城となり、明治6年(1873)、建物は払い下げられ取り壊された。
■ 構成
本丸・二ノ丸・三ノ丸に分かれており、それぞれの郭を大きな水堀で仕切って土塁や柵で囲っていた。
本丸や二ノ丸の一部には白壁も見られ、極めて近代的な城郭であったと思われる。
天守は築かれず、二ノ丸に郡代屋敷・馬場・御蔵があり、三ノ丸は主に上級家臣団の居住地となっていた。
大手門は俗に瓦門と呼ばれ南西端にあり、搦手門は二ノ丸と三ノ丸との間の東側にあり、円城寺門と呼ばれていた。そこには円城寺があった場所であったのでそう呼ばれており、かつて和賀氏の居城であった二子城の門を移築したものといわれている。
■ 現況
現在は市街地中心部にあるため、市役所・県立高校・病院が建てられており、かなり旧状を留めていないが、本丸跡は鳥谷ヶ崎公園となっており、平成6年には西御門が再建されている。
|
■ 大手門跡
二ノ丸大手門跡。
当時はこの道路や右脇の空間も全部堀であり、その幅は60mもあった。時期によっては水堀であった可能性もあるという。 |
|
■ 時鐘堂
当初、この時鐘は南部28代重直が盛岡城の時太鼓に変わって設置したが、小さすぎたため花巻城に移築されたという。 |
|
|
■ 濁堀跡
現在は埋立てられ駐車場となっているが、その形状から規模の壮大さが窺い知れる。 |
|
|
|
|
■ 円城寺門
現在は鳥谷ヶ崎神社の参道となっている。 |
|
■ 円城寺門
城の搦手口にあたる木造二階建櫓門。
この門は慶長19年(1614)、南部利直が二子城追手門から移築したもので、花巻城唯一の現存建築物である。 |
|
|
■ 薬研堀跡
二ノ丸南側、東御門脇に位置していた。現在は埋立てられている。 |
|
■ 東御門跡
二ノ丸の入口である。
大手門、円城寺門、馬場御門のいずれかを経由してこの東御門に至る。 |
|
■ 焔硝御蔵跡
東御門入ってすぐの場所に位置している。 |
|
■ 御囲穀御蔵跡
現在は武道場である「武徳殿」が建てられている。 |
|
■ 二ノ丸入口
大手門より続いている。この先、中御門を経由して本丸へ至る。 |
|
■ 中御門跡
二ノ丸正門である。枡形を設けていた。 |
|
|
■ 二ノ丸早坂御門跡
二ノ丸北側に位置し、本丸西御門に続く楼門である。
参勤交代などの時に一日市町、四日町への往来に使用する公用の門であった。 |
|
|
|
|
■ 本丸西御門(復原)
門の形式は「桝型脇戸櫓門」(ますがたわきどやぐらもん)と呼ばれ、木造2階建となっている。 |
|
|
|
■ 本丸三社跡
門の形式は「桝型脇戸櫓門」(ますがたわきどやぐらもん)と呼ばれ、木造2階建となっている。 |
|
|
|
■ 本丸御台所門
本丸南側の入口であり、現在は土塁の切れ目と言う形で残っている。 |
|
|
|