■ 沿革
人首城の創建時期は明らかではないが、「人首」という地名は延暦20年(801)に坂上田村麻呂に征伐された阿弖流為の弟・大武丸の子である人首丸(ひとかべまる)がこの地に逃げ込んだ事に由来するという。
結局、人首丸は田村麻呂の女婿である田原阿波守兼光に討たれた。
−人首氏の居城−
人首城は、葛西氏の重臣である岩谷堂城主・江刺三河守重胤の二男・人首如清が城主であったという。『奥州葛西動乱記』には葛西氏の配下に人首権太夫なる者の名が見え、その後、天正18年(1590)に葛西氏が豊臣秀吉の奥羽仕置によって所領没収になると、当時の人首城主である人首平十郎盛恒は宗家・江刺氏と命運を共にし、人首城を退去した。
また、『仙台古城書上』には天正年間(1573〜92)に安蘇修理(一説には国重)が人首城主であるとしている。この修理なる者が人首氏とどのような関連があったか明らかではない。
−伊達氏の要害として−
奥羽仕置後、人首城を含む葛西氏旧領は木村伊勢守吉清に与えられた。もしかしたら修理はこの吉清の代官であったのかもしれない。翌天正19年(1591)、木村氏が葛西・大崎一揆の責任により所領没収になると、木村氏の所領は伊達政宗に与えられた。
江戸時代に入ると、人首の地は伊達藩の藩境警備の重要な拠点に位置づけられた。政宗は慶長11年(1606)、沼辺摂津守重仲を城主に据え、要害として人首城の改修と城下町の整備に当たらせた。以降、沼辺氏が明治維新まで支配した。
明治2年(1869)、沼辺10代武房が城を明渡し、人首城は廃城となった。
■ 構成
人首川に沿って東西に伸びた比高約40mの丘陵上の先端に位置する。
頂部に3つの郭が位置し、沼辺氏の要害時代の本丸とされる郭は西端の郭である。本丸は東西50m×南北46mであり、南西端に要害時代の大手道が続いており、石組基礎の枡形門が設置されていた。ちなみに中世には二ノ丸跡であったとされる。北側・西側・南側は段構築され、幅約15mの腰郭が設けられている。
東端の郭は東西36m×南北50mの面積で最頂部に位置し、中世の主郭跡と推定される。東側には切岸を要し、空堀跡が残っている。
この両郭の間に一段低く郭が存在するが、庭園跡とも沼辺氏の要害時代の屋敷跡ともされる。ここから北側に中世の大手門が位置していた。後に搦手門になったものと思われる。
■ 現況
現在、城跡は館山公園として整備され、各遺構の保存状況は比較的良好である。
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■ 米里集落
かつて交通の要衝にあり、盛街道の宿駅として繁栄した。 |
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■ 入口
標柱では「大手門跡」となっているが、中世時代の大手門はこの先、城の反対側に位置していた。 |
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■ 搦手門跡
東館脇に位置する。
中世には大手門であり、沼辺氏の要害時代には搦手門であった。 |
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■ 東館
最頂部に位置する。中世には主郭であったとされる。 |
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■ 東館より本丸を望む
画像に写る郭は本丸と東館間の郭。要害時代の屋敷跡であったとされる。 |
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■ 本丸
沼辺氏の要害時代の本丸跡。中世時代には二ノ丸であったとされる。 |
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■ 本丸南側腰郭
本丸の北側・西側・南側を腰郭で囲んでいる。 |
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■ 本丸大手門跡土塁
本丸南側縁部に土塁が設けられている。 |
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