ふたごじょう
二子城
二子城 標柱  訪問年月日  2003年5月4日・8月2日 / 06年11月4日
 別称  飛勢城
 所在地  岩手県北上市二子町
 創築者  和賀氏
 主要城主  和賀氏・後藤半七
 築城年  −
 廃城年  天正18年(1590)
 様式  山城
 構成  白鳥館・八幡館・物見・屋敷跡
 遺構  土塁・空堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
二子城は和賀氏の居城である。
和賀氏は源頼朝の後裔であったと伝えられ、建久8年(1197)に和賀氏の始祖にあたる多田忠頼が和賀郡に入部したとされるが、その確証は無い。『鬼柳文書』によると、元仁元年(1224)頃、陸奥国刈田を領土としていた刈田平右衛門尉義季が和賀郡の地頭職に任じられ、義季の嫡子である三郎兵衛尉義行の代に和賀氏を称したという。

−和賀氏とその氏族−
仁治4年(1243)に義行が死去すると、義行の嫡子であった和賀二郎左衛門尉泰義が和賀氏総領を継いだ。義行は子供達に領土を分け与え、北上川東岸部に立花氏、西岸部に黒沢尻氏、和賀郡西部に須々孫氏、須々孫氏と黒沢尻氏の中間位置に鬼柳氏らがそれぞれ成立している。
諸氏が成立するも、黒岩城を居城としていた和賀氏が総領となり、後に更木館に移った。一方、義行の弟である義春は小田島氏を名乗り、二子城を居城とした。応永7年(1400)、更木館の和賀氏は小田島氏と婚姻関係を結んで両家を統合し、居城を二子城に移した。

−奥羽仕置と和賀氏の没落−
天正18年(1590)、和賀氏総領である和賀薩摩守義忠は豊臣秀吉の小田原合戦に参陣しなかったため、奥羽仕置によって所領没収となった。その後、和賀郡は浅野長政の管理下に置かれ、二子城には長政の家臣・後藤半七が城代として置かれた。
その後、仕置が終了し、結果的に和賀郡は南部信直に与えられて二子城は廃城となったが、秀吉の軍勢が帰還すると、旧領回復のために葛西氏や大崎氏の旧臣が放棄して一揆が起こった。それに連動して和賀義忠や稗貫孫二郎広忠らも和賀氏・稗貫氏の残党2,000人を集めて蜂起し、後藤半七を討って二子城を奪い返した。

一揆勢はその勢いで鳥谷ヶ崎城を取り囲んだ。しかし鳥谷ヶ崎城の城代・浅野庄左衛門は良く守り、三戸城からの南部信直の援軍もあって一揆勢を撃退した。だが、やがて冬になり南部勢は撤退しせざるを得なくなり、両城は一揆勢に占領された。
翌年、結局この一揆は伊達政宗・蒲生氏郷らによって鎮圧された。義忠は逃亡途中に大鐘原にて領民に殺害され、義忠の子である又二郎・又四郎は出羽国仙北郡に逃れた。又二郎・又四郎兄弟は文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵に参陣して手柄を得ようとしたが、参陣途中の下野国にて又二郎が病死し、一行はやむなく帰還した。その後、残った又四郎は和賀主馬忠親を名乗った。

−和賀氏最後の意地−
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の前哨戦ともいえる徳川家康の上杉征伐に従って、南部勢が最上氏救援のため出羽国に出陣した隙を狙い、忠親らは和賀氏残党を率いて蜂起した。
和賀勢は伊達政宗の影ながらの支援を受け、花巻城を襲撃した。しかし花巻城代の北信愛は少ない手勢で良く守り、その結果、周辺の南部勢も応援に駆け付けたため、忠親らは撤退を余儀なくされた。花巻城から撤退した和賀勢は二子城に退き、そこでも持ち応えられずに飯豊城、さらに岩崎城に逃れた。
和賀勢は翌慶長6年(1601)まで籠城したが、4月頃ついに岩崎城も落城し、忠親らは伊達領に逃れた。忠親主従らはその後、自害したとも政宗により暗殺されたとも伝えられる。


 ■ 構成
二子城は北上川南岸に位置し、二子という名は遠方より望んだ時三角形の小山が二つ並んで見える事により付いたとされる。この二つの山の西側は物見として、東側は詰めの城の機能を持っていた。
平時の館は詰城である八幡館を高台として周辺に屋敷を構えていた。北側より時計回りに監物館、坊館、加賀館、八重樫屋敷、白鳥館(古館)、御台坊屋敷、小田嶋屋敷、文殊院、大森屋敷、渋谷屋敷、斎藤屋敷の名が残っている。
これらの中で中心は白鳥館であり、主殿や常御殿が存在していたとされる。また、城の中央を和小路と呼ばれる南北に伸びた通路が存在し、両脇には侍屋敷が続いていた。
北側には搦手門が位置し、筒井内膳屋敷、筒井縫殿介屋敷、成田藤内館などの家臣屋敷が配置されていた。


 ■ 現況
現在、城跡は飛勢城公園として整備され、周囲の屋敷跡・館跡は宅地・寺社・公園などになっている。

■ 大手門跡
位置は不明であるが、かつてこの辺に大手門が存在していた。
二子城廃城後は南部氏が花巻城に移したとされる。
■ 八幡館と物見の間
道路が通っている。
■ 八幡館南端
駐車場となっている。
■ 八幡館入口
南側入口である。
■ 八幡神社境内
■ 八幡館
二子城の詰の城としての役割であったとされる。
■ 八幡館北側
■ 八幡館北側堀切跡
北側は堀切によって分断されている。
■ 八幡館東側切岸
比較的急斜面となっている。
■ 八幡館東側入口
白鳥館よりの登道と考えられる。
■ 八幡館東側上り道
階段が設けられている。
■ 八幡館西側空堀跡
■ 物見跡入口
八幡館側よりの通路。かなり急峻である。
■ 物見跡
愛宕神社が祀られている。
■ 物見土塁跡
■ 物見南側
■ 斎藤屋敷跡
斎藤氏は和賀氏の上級家臣であり、斎藤実盛の子孫であるとされる。
二子城の南側に屋敷を構えていた。
■ 斎藤屋敷空堀跡
■ 斎藤ヶ沢跡
江戸時代、沢水を堰き止めて堤が造られた。
■ 渋谷屋敷跡
家臣屋敷の一つである。
■ 大森屋敷跡
家臣屋敷の一つである。
■ 和小路跡入口
大手道より北に八幡館、東西に家臣屋敷へと続く交差点である。
■ 侍屋敷跡
■ 小田島屋敷跡
現在は永明寺敷地となっている。
和賀氏居館である白鳥館東側に隣接している。
■ 御台方屋敷跡
■ 白鳥館南側
2m以上の土塁が設けられている。
■ 白鳥館入口
■ 白鳥館
和賀氏の平時の居館である。古館とも呼ばれる。
■ 白鳥神社
建暦2年(1212)に和賀氏が創築したといわれる。
■ 白鳥館土塁跡
北端に土塁が存在する。
■ 文殊院跡
白鳥館南側に位置する。
■ 加賀館跡
家臣屋敷跡の一つである。
■ 坊館跡
家臣屋敷跡の一つである。
■ 監物館跡
家臣屋敷跡の一つである。
■ 筒井内膳屋敷跡
家臣屋敷跡の一つである。
■ 筒井縫殿介屋敷跡
家臣屋敷跡の一つである。
■ 堀跡
搦手門脇に設けられた堀跡。
■ 搦手門跡
二子城北側に位置する。これより外側は馬場野と呼ばれ、成田藤内館が存在する。
■ 成田藤内館跡
家臣屋敷跡の一つであると思われる。
この地より北方約800の地に成田藤内の居館であったとされる成田館が位置する。