■ 沿革
一戸城は糠部とその周辺を支配した南部氏の一族である一戸南部氏の居城である。
−南部氏の有力氏族、一戸氏−
一戸氏初代の行朝は野田城に居住し、創建は一戸南部氏2代目である一戸摂津守義実が2万石を領して一戸城に移った。
室町時代に入ると主家である三戸南部氏が台頭し、糠部郡を中心に勢力を拡張するが、それに伴い一戸南部氏も各地に一族を輩出し、平館・荒木田・千徳・津軽石・堀切・寄木・野田・谷内・中村・金田一などの諸氏の祖になったといわれる。
−城主の横死と落城−
天正9年(1581)、城主である一戸兵部大輔政連が、平館城主である弟の平館信濃守政包に親子共々刺殺された事件により、一戸南部氏は弱体化した。その後、三戸南部氏と九戸氏の争いにより、天正19年(1591)、豊臣秀吉の九戸城攻撃の前哨戦として一戸城は南部信直の攻撃を受け落城し、城主の一戸図書助光は討死した。
そして九戸の乱鎮圧後の文禄元年(1592)、一戸城は廃城となった。
■ 構成
一戸城は一戸町中心部東方に位置し、北から北館・八幡館・神明館の3つの郭に別れ、少し離れた南に常念館がある。本丸は北館にあったといわれるが、発掘調査の結果、中央の神明館が主郭であったと思われる。
■ 現況
現在城の西側には国道4号線バイパスが貫通し、その建設の際に大規模な発掘調査がなされている。現在城跡は公園となっている。
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■ 北館東側
現在一戸城跡の東側を通る国道4号線バイパスに面する駐車場となっている。 |
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■ 北館入口
上記の駐車場の奥に段差がある。右手の傾斜を登ると北館。 |
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■ 北館
かつてはこの郭が主郭と思われていたが、調査の結果、これより南の八幡館・神明館が主郭らしい。 |
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■ 北館南側腰郭
北館の南側は数段に分れて腰郭になっているようだ。 |
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■ 北館・八幡館間の道路
現在は道路になっているが、上記の腰郭と八幡館間の空堀だったのだろうか。 |
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■ 八幡館遠望
北館西側を下った所から南方向を望んだところ。左の土手が北館、中央の郭が八幡館。 |
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■ 八幡館
国道4号線バイパス側から見たところ。
この画像では分かりづらいが、中央の郭の奥に細い道路(空堀か)が通っている。 |
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