いいとよじょう
飯豊城
飯豊館 石碑  訪問年月日  2003年9月23日 / 2010年5月3日
 別称  飯豊館
 所在地  岩手県北上市飯豊17地割
 創築者  −
 主要城主  和賀小次郎義篤
 築城年  −
 廃城年  永享7年(1435)
 様式  平城
 構成  中館
 遺構  −
 設置・復原物  石碑
 文化財指定  −
 ■ 沿革
飯豊館は和賀氏総領である和賀小次郎義篤の居館であった。

−和賀氏の内訌−
正平25年(応安3・1370)、和賀氏6代である左近将監政義(経義)の代に継嗣がなく、総領家が途絶える危機が起きた。そこで一族の鬼柳伊賀守継義の子である式部大夫秀義を婿養子に迎え、政義の遺領である和賀郡黒岩郷を領有させることにした。
これに対し、和賀総領家を支持していた同じ一族である黒沢尻氏は異を唱え、反乱の兆しを見せた。しかしその後、式部大夫秀義の跡を黒沢尻九郎の二男・家親が継いだことを鑑みると、何らかの話し合いが付いたものと思われ、お家騒動は避けられた。

−永享の大乱−
永享7年(1435)5月、和賀氏総領に対し、再び黒沢尻氏が反逆の兆しを見せた。
事態を重く見た南部氏14代義政は、両者を仲介すべく福士伊勢守禅門を調停に派遣した。しかし黒沢尻氏は須々孫上野介(義躬か、その子・義村)と同調して和賀氏に叛き、さらにこれに稗貫出羽守が加わる事となった。
同年11月、黒沢尻氏、稗貫氏、須々孫氏ら反和賀氏の軍勢は、和賀氏の支城である飯豊城を攻撃し、これを落城させた。飯豊城を失った義篤は南部義政に応援を求め、これに応じた義政は不来方城を拠点にして翌・永享8年(1436)、寺林城を落城させ、稗貫氏の居城である十八ヶ沢城(本館)も攻撃するなどしたため、反和賀氏の勢力は力を失った。
これにより須々孫氏は和賀氏に降ることとなり、稗貫氏は南部氏に和議を申し入れ、南部氏に降ったという。

落城後の飯豊城の状況は不明である。


 ■ 構成
飯豊城の中心は中館であった。中館の規模からして、相当の広さであったと推測される。
城の北東には「飯豊森」と呼ばれる信仰の山として崇められた森が位置する。


 ■ 現況
現在、城跡は住宅地、水田と化しており、遺構はほとんど残ってない。
わずかに「中館」の地名と石碑がかつてこの地に城があったことを連想させる。

■ 石碑
城跡南側に建てられている。
「永享七年落城」と標されている。
■ 飯豊森方面を望む
中館の西側である。かつての城域であろうか。
■ 中館跡
県道252号線が横断する。
バス停により、ここが中館跡ということを認識させられる。
■ 中館跡
現在は住宅地となっている。
■ 中館跡
東端である。
■ 八幡神社跡
中館東側に位置し、かつては宇南神社と称した。
飯豊城の守社であったとされる。
■ 飯豊森
「イイデモリ」「エンデモリ」と呼ばれ、古くから信仰の対象であった。