■ 沿革
岩渡堂館は岩田堂館、八森館とも称する。
戦国時代には岩田堂隠岐の居館であったとされ、また時期は不明であるが八森館は八ツ森小七郎が館主であったと伝わる。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において、南部氏が出羽国の最上氏救援のため出陣中の間隙を狙い、和賀義忠の子である忠親が一揆を起こした。
しかし一揆勢は花巻城攻撃に失敗し、岩崎城へ撤退する際に岩渡堂に陣を敷いたとされる。結果的に一揆勢は南部勢の追撃を受け、さらに南下し、岩崎城へ落延びた。
■ 構成
北に成田館、南に二子城が位置する中間地点に存在する。
飯豊川南岸の丘陵上に位置し、北側に飯豊川が流れ、東側に北上川が流れる八ツ森山に位置し、北側は約10mの高さの断崖である。
南側に堀を設け、西側には数段の段築が存在する。
■ 現況
現在、主郭には岩渡堂八幡宮が祀られている。
堀跡は埋立てられ車道となっており、西側の古道も途切れて現在は使用されていないが、往時を想像するのは難くない。
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■ 飯豊川
館跡の北側を流れる。画像右側が成田館。 |
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■ 古道跡
館跡のすぐ西側を南北に通る古道跡。
かつては二子城から花巻を結ぶ道であった。 |
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■ 八幡宮入口
朽ちかけている標柱が建てられている。 |
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■ 堀跡
館跡の南側の車道であるが、かつての堀跡であったとされる。 |
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