■ 沿革
岩崎城は和賀地方を支配した和賀氏の城館の一つで、本城の二子城に次ぐ規模である。築城の時期は定かでは無いが、南北朝時代には既に存在していたといわれる。
−和賀氏一族、岩崎氏−
南北朝時代に岩崎大炊一道なるものが南朝方として活躍し、暦応4年(興国2・1341)には岩崎城で合戦があり、鬼柳清義が討死している。さらに享禄4年(1531)、和賀氏と出羽国仙北の小田島氏との戦いには岩崎氏も参陣しており、天正9年(1581)の『和賀御分限録』には岩崎治部の名が残っている。
また、『封内郷村志』では戦国時代末期、和賀氏の家臣である岩崎弥十郎の名が伝わっている。
−和賀一揆の勃発−
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置において和賀氏は小田原に参陣しなかったため所領を没収され、和賀地方は南部氏に与えられた。その後天正20年(1592)に岩崎城は廃城となった。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の折、南部利直が出羽国の最上義光の救援に赴いた。和賀氏の旧臣達はこの際の間隙を突いて、和賀氏最後の当主である義忠の子の忠親を擁し、一揆を蜂起して花巻城を包囲した。
しかし城代の北信愛の必死の防戦によってこの攻撃は失敗し、一揆勢は二子城まで撤退し、最終的には岩崎城に籠城した。この時の城主は岩崎弥右衛門義彦であり、岩崎氏は7人が一揆に参加している。
この一揆は裏で伊達政宗が支援していたといわれ、当初は伊達氏の家臣・白石氏の援助があったが、慶長6年(1601)には援助もままならず、岩崎城は孤立した。そこに南部勢は総攻撃をかけたため岩崎城は落城し、籠城者の多くは討死したが、忠親らは何とか落延び、伊達氏を頼った。
しかし後になってこの一揆は伊達政宗によって煽動された事が露見した。これにより忠親ら主従7人は自刃して果てたとも政宗に殺害されたともいう。
−南部氏の支配−
一揆鎮圧後、岩崎城は南部氏家臣の野田・大槌・江刺・栗谷川ら諸氏によって修繕され、慶長7年(1602)に同じく南部家臣である柏山伊勢守明助が入城し、伊達氏との藩境の警備に当たった。
だが寛永元年(1624)、明助が死去した後、嫡子・明定や次男・明信らも次々と亡くなり、最後に三男・明道が跡を継いだが、明道も急死し、無嗣断絶のため岩崎城は廃城となった。
■ 構成
城跡は夏油川の左岸に沿った台地上に位置し、城内は南北にの3つの郭に分かれている。
各郭の周辺には高さ約2mの土塁が築かれており、各郭を仕切る空堀は幅約20m、深さ約15mにも達する所もある。
中央の郭が本丸であり、面積は約5,000uで、現在は天守を模した岩崎公民館が建造されている。
その北側に二ノ丸があり、現在は夏油川に削り取られたらしく、2,000u程しか残っていない。三ノ丸は南側で15,000uで最も広大であり、南側には枡形を設けた門跡がある。3つの郭の西側は城内と呼ばれ居住地であったとされる。大手口も城内地域にある。
■ 現況
現在は本丸跡に天守を模した岩崎公民館が建てられ、資料館となっている。
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■ 三ノ丸入口
岩崎城西側は現在運動公園となっており、その脇を登っていく。 |
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■ 三ノ丸大手門跡
枡形内側(画像右側)には大規模な土塁が位置する。 |
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■ 三ノ丸跡
岩崎城では最も広大な郭であり、三ノ丸を抜けて本丸に行き着く。 |
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■ 本丸・三ノ丸間空堀
本丸西側、三ノ丸との間に設けられた空堀。 |
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■ 本丸土塁跡
本丸北側淵に土塁が設けられている。公民館裏手に存在する。 |
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■ 公民館展望台から市内を望む
天守風の展望台からは和賀町が一望できる。
この公民館は昭和48年に普通の2階建ての公民館として1億8,000万円かけて建造されたが、
翌49年にさらに1億6,000万円かけて上に天守風の展望台を設けたという。
ちなみに当時は北上市と合併する前の和賀町であった。金あったんですね当時は・・・。
当然岩崎城にこのような建造物があった事実は無い。 |
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■ 本丸・二ノ丸空堀跡
本丸・三ノ丸間の空堀に比べると規模は小さいが、両面の勾配は急である。
画像右下の石は石垣のものか、ただの積み石か。 |
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■ 二ノ丸入口
かなりの急勾配である。画像は上から望んだところ。 |
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■ 二ノ丸土塁跡
二ノ丸北側淵に土塁が設けられている。 |
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■ 搦手門跡
本丸・三ノ丸の北側にある城内と呼ばれる地域にある。
現在は石碑が置かれ、住宅地となっている。 |
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