いわやどうじょう
岩谷堂城
岩谷堂城  訪問年月日  2003年4月12日・7月12日 / 06年11月4日
 別称  江刺城・柄杓ヶ城・岩谷堂要害
 所在地  岩手県奥州市江刺区岩谷堂字館山
 創築者  葛西氏
 主要城主  江刺氏・溝口氏・桑折氏・母帯氏・岩城氏・他
 築城年  −
 廃城年  明治2年(1869)
 様式  山城
 構成  主郭・二ノ丸・中ノ郭・三ノ丸
 遺構  郭・土塁・空堀
 設置・復原物  説明板・石碑
 文化財指定  −
 ■ 沿革
文治5年(1189)、葛西三郎清重は源頼朝の奥州征伐に従った功により、奥州総奉行として陸奥国の胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿など五郡を与えられた。それに及び、江刺郡には千葉頼胤の三男である胤道が配され、岩谷堂城を居城として江刺氏を名乗った。
また、『奥南落穂集』には葛西氏5代の孫・葛西信詮の二男・江刺次郎信満が岩谷堂城主と伝えられ、南北朝時代以降、江刺氏は葛西氏の一族として江刺郡に勢力を持っていたと思われる。

−江刺氏と主家・葛西氏の対立−
しかし、江刺氏が次第に勢力を拡大するようになると、江刺氏は宗家である葛西氏と対立するようになった。やがて康安元年(正平16・1361)に江刺郡浅井村において両氏間で合戦となった。その後、文明17年(1485)には江刺隆見と葛西政信との合戦が行われ、明応4年(1495)にも再び合戦に及んでいる。
この戦いにおいて隆見は葛西氏に敗北し、岩谷堂城には政信の孫である三河守重胤が居城として入城し、江刺郡を支配している。天正13年(1585)頃、重胤の数代後と思われる三河守信時が葛西氏に追放され、代わりに兵庫頭重恒が継いでいる。これは信時の素行不良が原因であったと伝えられるが、詳細は不明である。

−葛西氏と江刺氏の滅亡−
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置において葛西氏は所領没収となり、江刺氏もこれに従って重恒は岩谷堂城を去った。仕置後、葛西氏旧領は木村伊勢守吉清に与えられ、岩谷堂城には吉清の家臣である溝口外記が城代として入城したが、外記は同年の葛西・大崎一揆において一揆勢に敗れ討死した。
なお、『岩谷堂城主代々申伝書上』によると、木村氏の代官は佐瀬伯耆・粟野九左衛門であったとされ、また大谷義継の書状によると、岩谷堂城主として北目氏の名が見える。粟野氏は伊達政宗の家臣として北目城を所領としており、北目氏=粟野氏と考えると伊達氏の代官であったと考えることもできる。

−伊達氏の支配下へ−
この一揆により吉清は失脚し、旧領は伊達政宗に与えられた。伊達氏の支配下に置かれた岩谷堂城には政宗の家臣である桑折摂津守政長(政長の父・点了斎宗長とも)が入城した。政長は文禄2年(1593)、朝鮮出兵中に釜山浦において病没し、父・宗長も慶長6年(1601)に死去した。

桑折氏の後には母帯越中が城主となったとされる。母帯氏は葛西氏旧臣の名族であり、葛西氏滅亡後は伊達政宗に仕えていた。越中は慶長5年(1600)の和賀一揆において政宗の命をを受け、和賀忠親を支援している。この一揆が失敗に終わると、忠親は仙台国分尼寺にて自害(暗殺とも)し、支援していた越中は『伊達秘鑑』『伊達治家記録』などの伊達氏の史書には登場していない。
ちなみに伊達政宗が南部利直に宛てた書状の中で「この度の一揆に此方の百姓も加わっており、言語道断」という件があり、この事から越中は政宗により詰腹を切らされたものと思われる。
なお、『伊達秘鑑』には岩谷堂城主には母帯氏に替えて猪苗代長門の名が見える。

その後、慶長7年(1602)には古田伊豆守重直が、元和5年(1619)には増田将監宗繁が城主となり、元和8年(1622)には伊達政宗世子である忠宗の御部屋となり、城代制が敷かれた。
城代は藤田但馬守宗和が務め、寛永20年(1643)まで続いた。寛永20年(1643)より古内伊賀守義重・志摩守義如の父子が在城し、万治2年(1659)に古内氏が上口内城に転封されると、後は岩城左兵衛宗規が城主となり、大手の移転や建物の改修など大規模な整備が行われ、9代続いて明治維新を迎えた。
明治2年(1869)、岩谷堂城は新政府に明渡され、廃城となった。


 ■ 構成
比高約80mの丘陵上に位置し、頂部が中世時代の主郭であった。
主郭は東西約80m×南北約100mの規模の楕円状であり、周囲に土塁をめぐらせ、北側・東側・南側には帯郭が位置していた。当時の大手は東側に位置していたという。
主郭の南西側には空堀と帯郭・中ノ郭を隔てて東西約100m×南北約150mの規模の二ノ丸が位置していた。らにその西側には三ノ丸が位置しており、二ノ丸から三ノ丸にかけて南西方向に大手口が伸びていた。


 ■ 現況
現在、本丸には館山八幡神社が祀られており、中ノ郭は公園として整備され、本丸・中ノ丸は館山史跡公園として整備されており、土塁・空堀が明瞭に残る。
二ノ丸は岩手県立岩谷堂高校グラウンドに、三ノ丸は岩谷堂高校敷地・奥州市立岩谷堂高校小学校の敷地と住宅地になっている。

■ 御館坂跡
城下町よりの上り口である。
■ 三ノ丸跡
現在は岩手県立岩谷堂高校の敷地となっている。
■ 大手道
岩谷堂高校脇を上る。
■ 大手門跡前
右側に曲がると大手門跡である。
■ 大手門跡
左側に曲がる枡形が設けられている。
■ 二ノ丸跡
岩谷高校のグラウンドとなっている。
■ 二ノ丸北側
土塁が設けられている。
■ 二ノ丸北側空堀跡
土塁と空堀によって区切られ、中ノ郭へ続いている。
■ 二ノ丸・中ノ郭間空堀跡
画像左右の土塁にて、間に素晴らしい空堀が出来ている。
■ 中ノ郭跡
公園として整備されている。
■ 中ノ郭西側土塁
端に土塁が設けられている
■ 搦手口跡
本丸と中ノ郭の間に位置していた。
■ 中ノ郭・本丸間空堀跡
岩谷堂城の中で最も明瞭に残る遺構である。
■ 本丸入口
藤原氏御館跡の石碑が残る。
■ 本丸虎口跡
南よりの入口
■ 本丸跡
■ 本丸跡大イチョウ
樹齢800年とも伝えられ、本丸跡に祀られている館山八幡神社の隣に植えられていた。
■ 本丸跡館山神社
延慶4年(1313)、岩谷堂城城主である江刺三郎四郎が父母の供養のために建立した古碑が残る。
■ 二清院
藤原経清・清衡父子を祀って建立された。
■ 本丸南東側土塁跡
二重土塁が築かれている。
■ 本丸東側腰郭
外周に沿って腰郭が設けられている。
■ 本丸南側腰郭
■ 本丸南側腰郭