かみすすまごじょう
上煤孫城
上煤孫城東館 遠望  訪問年月日  2008年4月5日
 別称  上須々孫城・林崎館
 所在地  岩手県北上市和賀町煤孫
 創築者  和賀氏
 主要城主  煤孫氏
 築城年  −
 廃城年  −
 様式  山城
 構成  西館・東館(林崎館)
 遺構  郭・土塁・空堀・土橋・石塔婆
 設置・復原物  標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
上煤孫城の創建時期は明らかではないが、須々孫氏の居城として機能していた。

−和賀氏の有力氏族・須々孫氏−
仁治4年(1243)頃、煤孫の地は和賀義行の三男・五郎右衛門尉景行に与えられた。景行は恐らく上煤孫城を本拠にして須々孫氏を名乗った。
建長8年(1256)、景行は鎌倉幕府より奥州街道の警固を命じられており、弘安8年(1285)頃には総領である和賀泰義と対立している。さらに景行の長男である右衛門五郎行盛は中尊寺領の侵害事件に際して幕命を受け実地検証を行った。
このようにして須々孫氏は次第に和賀氏の中でも勢力を強めていった。

−須々孫氏と総領・和賀氏の抗争−
しかし、永享7年(1435)、須々孫上野介(義躬か、その子・義村)は、再び総領である和賀小次郎義篤と対立した。須々孫氏は黒沢尻氏や稗貫氏の応援を受け、和賀氏の支城である飯豊城を攻撃する。これに対し、南部氏や葛西氏は和賀氏に味方し、結果須々孫氏は形勢不利に陥り、やがて敗北した。

この結果、須々孫氏がどのような消息を辿ったかは不明であるが、系図によると義村以降、上野介の名は途絶えている。また、義村の跡を継いだ孫七郎義実までは「須々孫氏」を名乗っているが、次の義和の代になると「煤孫氏」と名乗っている。この事から、争乱に加わった上野介の系譜は絶え、以降の須々孫氏は姓の表記を変えることにより和賀氏に服従したものと思われる。

この間、いつの頃かは不明であるが、須々孫氏は居城を下煤孫城に移している。
廃城時期は不明である。


 ■ 構成
上煤孫城は、和賀川の支流である熊沢川を挟んで西館と東館(林崎館)に分けられている。
両館の構築時期は異なると思われ、西館の方が古くから活用されていたようである。
西館は全体の面積が約200m×約100mの規模で、前後二つの郭からなる。主郭は約8,000uであり、後背の郭とは歪んだ空堀によって隔てられている。後背の郭の背後も空堀で隔てられており、各郭とも土塁で囲まれている。

東館は東西約150m×南北約120mの規模で、単郭である。北側と西側が切り立った崖であり、南側と東側は巨大な空堀で区切られ、土橋で繋いでいる。


 ■ 現況
現在、西館は林となっており、空堀・土塁が良好に残っている。西館北端の一部は石塔婆が祀られており、整備状況は良好である。
東館は空堀・土塁・土橋が良好に残る。

■ 熊沢川
西館と東館を分断している。
■ 西館北端
石塔婆が祀られており、上煤孫城で唯一整備されていると言っても良い。
■ 西館石塔婆
元亨3年(1323)3月13日の紀年銘が記されており、鎌倉時代末期のものと思われる。
煤孫一族の供養塔であろうか。
■ 西館北端よりの眺望
北西側が一望できる。
■ 西館
農道が縦に通っている。画像右手の道路沿い向こうに西館が広がる。
■ 西館
東館に比べて古くから活用されていたものと思われる。
■ 西館空堀跡
西館南側、後背部を分断する空堀跡である。
■ 西館土塁跡
西館は空堀と土塁が良好に残っている。
■ 西館土塁跡
■ 東館北側切岸
かなりの急勾配である。
■ 東館北側
北側切岸を登りきった場所である。
■ 東館虎口跡
土塁で区切られており、中央に虎口が設けられている。
■ 東館土橋跡
土塁を越えると空堀が位置し、土橋によって繋がれている。
■ 東館空堀跡
大規模な空堀が分断している。
■ 東館空堀跡
鉤型のクランク状になっている。
■ 東館
東西約150m×南北約120mの規模である。
■ 遠望
北側よりの遠望。