かねがさきじょう
金ヶ崎城
金ヶ崎城  訪問年月日  2003年7月5日 / 2008年4月26日
 別称  白糸城・川崎城・胡桃館・金ヶ崎要害
 所在地  岩手県胆沢郡金ケ崎町西根字白糸
 創築者  −
 主要城主  川崎・小野寺・九戸・木村・桑折・留守・大町氏
 築城年  −
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・蔵館・東館・観音館・大庭
 遺構  郭・土塁・空堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
金ヶ崎城は戦国期に機能していた川崎城と同一と思われるが、異論もある。
また白糸城とも呼ばれ、延暦20年(801)に坂上田村麻呂が築城し、以後は安倍貞任の叔父・川堰太夫為行が居城とし、貞任が没落した後は安倍頼時の娘・白糸の前が住んだともされる。しかしこれも伝承の域を出ない。

−川崎城時代−
川崎城としての創建時期は不明であるが、15世紀中頃には川崎左京信政が在城していたとされる。
この川崎氏は永禄11年(1568)、和賀薩摩守義次が城主であった二子城を攻撃した。義次は横手城主・小野寺義道に援軍を依頼し、義道は実子・小野寺宗道を派遣し、義次と共に川崎勢を撃退した。
その結果、逆に川崎氏は攻め滅ぼされ、その後川崎城には小野寺宗道が入城し、金ヶ崎城と改称した。

元亀元年(1570)、金ヶ崎城は九戸城主である九戸政実の攻撃を受けた。
この時には宗道が九戸勢を撃退しているが、天正元年(1573)にも侵攻を受け、今度は小野寺勢が苦境に陥り、宗道は葛西氏を頼って何とか凌いでいる。
さらに天正10年(1582)、三度目に政実が攻撃してきた際、葛西氏は寺崎石見守良次が率いる4,000人の軍勢を派遣したが、九戸勢も援軍を増強し激戦となり、良次は討死し葛西勢は総崩れとなった。こうして金ヶ崎城は九戸氏の支配下に入った。

−伊達氏の支配下に−
天正19年(1591)、豊臣秀吉の奥羽仕置により九戸氏が滅亡した後、金ヶ崎城は木村伊勢守吉清に与えられた。同年、木村氏が葛西・大崎一揆の責任により改易されると、旧葛西領は伊達政宗の支配下に置かれたため、金ヶ崎城も同じ変遷を経たと思われる。
慶長7年(1602)、金ヶ崎城には伊達氏家臣・桑折左衛門景頼が江刺郡岩谷堂城より移封された。
だが慶長19年(1614)に伊達秀宗が伊予国宇和島へ移される際、景頼もこれに従い金ヶ崎城を去った。

これに替わり、元和元年(1615)に一関城主である留守宗利が入城したが、寛永6年(1629)に水沢城へ移り、これ以後しばし空城の状態にあった。
寛永21年(1644)、大町備前守定頼が藤沢城より2,000石をもって移封された。大町氏は後の加増もあり、3,000石の知行で幕末まで支配し、明治元年(1868)に廃城となった。


 ■ 構成
金ヶ崎城は本丸・二ノ丸・蔵館・東館・観音館・大庭などの郭によって構成されていた。
本丸の規模は東西約110m×南北約50m、二ノ丸は東西約70m×南北約200mであり、東館は30haの規模であったとされるが、現在は北上川によって押流されており、現在その跡を留めていない。
留守氏の時代には居館は本丸に置かれ、大町氏の時代には二ノ丸に置かれていたと思われる。
蔵館には古来より具足蔵が置かれていたとされ、東館は三ノ丸として機能していたとされる。
また、大町氏の時代には本丸・東館・蔵館は北上川の浸食が激しく、郭としての利用は著しく困難であったようである。


 ■ 現況
現在、二ノ丸周辺が公園となっており、その他は宅地化されている。

■ 下屋敷跡
現在は諏訪神社が祀られている。
諏訪神社は前九年合戦の折、信濃国諏訪の社に戦勝を祈願した源頼義の勧請と伝えられる。
近代に入って村社となり、金ヶ崎神社と改称した。
■ 二ノ丸西側
天然の崖を利用した堀となっている。
■ 二ノ丸跡
江戸時代の大町氏の居館跡とされる。
■ 二ノ丸見張台跡
二ノ丸北西端に位置する。
■ 二ノ丸大手門跡
二ノ丸東側に位置し、本丸へと続いていた。
■ 二ノ丸裏門跡
二ノ丸南側に位置していた。
■ 本丸
現在は宅地となっている。
■ 本丸土塁跡
南側に高さ約1m程度の土塁が残っている。
■ 東館
本丸の東側の郭である。
■ 東館空堀跡
東館の外周には空堀が残っている。
■ 観音館
金ヶ崎城東端に位置する。
現在は県道108号線が通り、館跡を分断している。
■ 大庭堀跡
大庭跡は現在雑木林となっている。
■ 地図
画像は2003年当時の物。
現在の表示は二ノ丸「正面」「裏門」が入れ替わっている。