からめ(からうめ)じょう
唐梅城
唐梅城 主郭跡  訪問年月日  2011年7月17日
 別称  唐梅館・長坂城・鋒引館
 所在地  岩手県一関市東山町長坂
 創築者  千葉左衛門慰頼胤
 主要城主  長坂千葉氏
 築城年  建久2年(1191)
 廃城年  −
 様式  山城
 構成  主郭・二ノ郭・腰郭
 遺構  郭・土塁・堀切・井戸跡
 設置・復原物  説明板・門柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
唐梅館は長坂千葉氏の居館である。
『長坂氏系図』によると、長坂千葉氏の始祖・千葉左衛門慰頼胤は千葉常胤の七男であったとされる。しかし通説では常胤には6子しかおらず、一説には常胤と頼胤は同一人物であるという説や、常胤の子ではなく、常胤の嫡子・胤正の子で、実際には常胤の孫であるという説も存在する。
頼胤は治承4年(1180)より源頼朝に仕え、文治5年(1189)の奥州合戦の際には葛西清重に従って軍功を挙げた。その功により建久2年(1191)、陸奥国に知行を賜り、唐梅城を築いて嫡子・良胤と移りこれを居館とした。

−長坂千葉氏と一族の形成−
「長坂氏系図」によると頼胤には6人の男子がおり、嫡子・良胤(長坂太郎)の他、胤広(百岡二郎)、胤道(江刺三郎)、正胤(本吉四郎)、胤重(浜田五郎)、富胤(一ノ関六郎)らがおり、それぞれが各地に土着して千葉氏一族を形成したとされる。しかしこの系図以外にも異なる頼胤の系図が存在し、定かではない。

いずれにせよ長坂千葉氏は葛西氏家臣の千葉氏の中で最も強大な勢力を擁していたが、その事績に関しては不明な点が多い。これに関しては南北朝時代に歴代当主が討死して勢力が衰えた事に遠因があると思われる。文保元年(1317)には6代・民部大輔胤秀が討死し、また9代・治部少輔顕胤は葛西氏に従った合戦において白河にて討死している。また、永正11年(1514)には薄衣氏との間で確執が起こり、17代・豊前守近胤が薄衣隼人に討たれた。これにより千葉氏の家老・千田勝政は浪人となっている。

天文19年(1550)には唐梅城内において騒動が発生する。新山城主である新山(亀掛川千葉)師秀・師茂兄弟は弓の名手で誉れ高かったが、それについて母体城主・千葉伊賀守則房と口論になり、師秀は長坂千葉氏20代・石見守重胤により謀殺された。また弟・師茂も負傷し、3年後に死没している。これに怒った兄弟の父・師兼は長坂千葉氏と母体氏に兵を挙げたが、主家である葛西氏に私戦と見られ、新山城は大原飛騨守信茂によって没収された。

−葛西氏と千葉氏の滅亡−
天正18年(1590)4月17日、豊臣秀吉による小田原合戦参陣に際し、葛西氏17代当主・晴信をはじめ葛西氏配下の諸将が唐梅城に集結し、参陣の是非を問う軍議が催されたという。この軍議は結論が出ないまま時が過ぎてしまい、結局小田原参陣には間に合わずに豊臣勢を迎撃する事となった。『家臣衆座列』『葛西真記録』には、仕置軍の向陣・中街道備・旗脇として長坂千葉氏からは大膳胤村(長坂千葉氏21代・信胤と同一人物)と信胤の嫡子・千葉刑部胤方らの名が見える。

しかし、結果的に葛西氏は敗北したため滅亡し、千葉氏も葛西氏と命運を共にした。その後、信胤は南部利直に招かれ、再び唐梅城に戻ったが、慶長5年(1600)の和賀一揆の際に再び没落した。
信胤は江刺氏を頼り、再び利直に招かれたが、慶長6年(1601)に信胤が稗貫郡瀬川村にて病没し、胤方が花巻城代・北信愛に50石の知行で仕えた。また二男・広胤は百岡土佐守を名乗り、三男・胤重は長坂弥七郎と称してそれぞれ別途に家を興している。


 ■ 構成
東側に猿沢川、西側に山谷川、南側を砂鉄川に囲まれた標高249.6mの唐梅山の頂部に位置する要害である。東南側は猿沢川に侵食された断崖が展開し、かつての登城道は南側からであった。
主郭は頂部に位置し、東西53m×南北27mの規模で北側から西側にかけて高さ約1mの土塁が設けられている。
主郭の北西側には約5m下にニノ郭が位置し、井戸跡が残り、北面に空掘が設けられている。主郭の東側と南側にはそれぞれ複数の腰郭が設けられ、多い所では7段が確認できる。


 ■ 現況
現在、唐梅山は唐梅館総合公園として整備され、主郭・ニノ郭が整備されている。

■ 唐梅館総合公園入口
館跡の南側よりの入口。往時の出入口とは異なると思われる。
■ 大手道跡か
公園内の車道に沿って古道らしき跡が残る。
■ ニノ郭入口
北側からの入口である。
■ ニノ郭
主郭の北西側に位置する。
■ ニノ郭井戸跡
現在も水が湧き出ている。
■ 西側腰郭
数段の段築が確認できる。
■ 主郭登口
西端に位置する。
■ 主郭入口
門柱が再現されている。千葉氏の家紋である「月星」が施されている。
■ 主郭
唐梅山の頂部に位置する。
天正18年(1590)に催された葛西晴信の軍議はこの山頂ではなく、麓であったと伝承される。
■ 主郭土塁跡
北側から西側にかけて土塁が設けられ、初代城主・千葉頼胤の墓碑が祀られている。
■ 主郭よりの眺望
町内が一望できる。
■ 空堀跡
主郭東側の空堀跡。
■ 遠望