■ 沿革
鹿島館は和賀氏の有力氏族・鬼柳氏の居館である。
創建時期は明らかではないが、鬼柳義継の時代のものと思われる書院造の御所が存在した。
天正6年(1578)には鬼柳伊賀守義邑(盛正であるともいわれる)が丸子館より居館を移している。
天正18年(1590)、和賀氏の所領没収により、鹿島館は廃城となった。
その際、義邑の四男である源四郎は南部信直に仕え、城代として鹿島館を破却した。このような苦しい立場に置かれた源四郎はやがて発狂して亡くなったという。
しかし、発掘調査により僅かながら近世の遺物も発見されており、その後も何らかの利用があったと思われる。
■ 構成
鹿島館の規模は全体で東西約200m×南北約450mであり、8つの郭に分かれていた。
主郭は中央北側に位置する郭であったとされ、面積は約600uと最も大きな郭である。かつては北館・南館と2つに分かれていたが、やがて統合されて一つの郭になったとされる。
各郭は幅約5m、深さ約3mの空堀によって区切られ、主郭は高さ約1.2mの高さの土塁によって囲まれている。
■ 現況
正覚寺裏手一帯が館跡であるが、砂利採取により二ノ郭・三ノ郭は殆ど破壊され残っていない。
しかし一ノ郭の土塁・空堀は良好に残っている。
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■ 北側入口
館跡の北側、一ノ郭側よりの入口である。 |
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■ 一ノ郭
館の中心部に位置する。郭の中では最も規模が大きい。
かつては北館・南館と二つの郭であったが、いつ頃か、両郭間の堀が埋められて一つの郭となった。 |
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■ 一ノ郭土塁跡
高さ2〜3m程度の土塁で囲まれている。 |
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■ 一ノ郭土塁跡堀切
土塁の一部に堀切が設けられている。 |
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■ 二ノ郭
一ノ郭南側に位置する。砂利採取によって殆ど遺構は残っていない。 |
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■ 二ノ郭土塁跡
二ノ丸北側、一ノ郭との間に設けられている土塁である。 |
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■ 三ノ郭北側
現在は正覚寺の墓地となり、遺構は殆ど残っていない。 |
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■ 五ノ郭西側堀跡
天然の沢を利用した堀跡である。 |
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■ 成沢川
一ノ郭〜六ノ郭群と七ノ郭〜八ノ郭群間を分断している。 |
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■ 七ノ郭
中世の鬼柳一族のものと思われる古墓群が存在している。 |
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