こうすいじじょう
高水寺城
高水寺城 本丸入口  訪問年月日  2009年7月17日 / 2009年11月22日
 別称  斯波御所・郡山城
 所在地  岩手県紫波郡紫波町二日町字古館
 創築者  斯波氏
 主要城主  斯波氏・中野吉兵衛康実・南部利直
 築城年  −
 廃城年  寛文7年(1677)
 様式  山城
 構成  主郭・姫御殿・若殿屋敷
 遺構  郭・土塁・堀切
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  町指定史跡
 ■ 沿革
高水寺城は斯波氏の居城である。

−北朝の名門・斯波氏−
斯波氏の始祖は鎌倉幕府の御家人である足利尾張守家氏であり、家氏が13世紀半ばに陸奥国斯波郡を与えられたことに始まる。
当初は高水寺の敷地を城柵として利用していたことから高水寺城の名称が付いたとされているが、実際に斯波氏が斯波郡に下向したのは4代高経の頃であった。それ故に実質上、斯波氏を名乗ったのは高経からともいえる。斯波氏はその格式の高さから「斯波御所」とも呼ばれていた。

建武2年(1335)、足利尊氏によって高経の長子である家長が奥州管領に任じられた。これは建武元年(1334)に後醍醐天皇によって北畠顕家が陸奥守に任じられ、陸奥国多賀城に入った南朝側に対する措置であった。高水寺城はこの家長によって本格的に山城として整備された。
建武4年(延元2・1338)、北畠顕家は足利尊氏を攻撃するため多賀城を出発し、家長はこれを鎌倉で迎え撃った。しかしこれに敗北し、家長は討死した。家長の跡は嫡子である詮経が継いだが、家長の弟・家兼は文和3年(正平9・1354)、奥州管領に任じられ、中新田を居城として奥州斯波氏の始祖となっている。

−「三御所」−
戦国時代に入り、斯波詮高の代になると斯波氏は最盛期を迎える。詮高は嫡男である斯波経詮に家督を継がせ、天文18年(1549)には南部氏の支配下にあった滴石城を攻撃し、二男である詮貞を城主に置いた。ちなみにこの時、滴石から雫石と改称している。
さらに三男・詮義を猪去城に置き、三戸南部氏の攻撃に備えた。これら三家は斯波氏の格式の高さからそれぞれ「御所」と称された。

−斯波氏の没落−
しかしその後、三戸南部氏との抗争により斯波氏は劣勢に立たされるようになった。
結果、経詮の子である高水寺城主・斯波詮真は、南部氏24代晴政の一族である九戸政実の弟・九戸弥五郎を女婿として受け入れ、関係修復を図った。これは事実上、斯波氏が南部氏の圧力に屈したともいえる。弥五郎は入嗣後、高田村を与えられ高田吉兵衛康実と名を改めたが、天正14年(1586)に南部氏26代信直の下へ出奔した。
この時の斯波氏当主は詮直であった。ここにきて詮直は統率が取れず、天正16年(1588)には岩清水右京義教・田中務詮秦らが波乱を起こした。詮直は鎮圧のため、右京の兄・岩清水肥後守義長に右京の居城である岩清水城を攻撃させた。しかし義長は敗れ、家中は混乱を好機と捉えた南部信直は高水寺城を攻撃し、斯波氏は滅亡した。
なお、南部氏に仕えた康実は中野修理康実と改称している。

−南部氏の拠点として−
信直は高水寺城をの名称を郡山城と改称し、領内南部の支配拠点として中野康実を城代に任じた。
その後、信直は天正19年(1591)に九戸政実を滅ぼして家中を統一すると、新しい居城である盛岡城の築城にあたった。しかし信直は慶長3年(1599)に没し、跡を継いだ利直は盛岡城完成まで一時期、郡山城を居城とすることもあった。

寛文7年(1677)に廃城となり、廃材は盛岡城に転用されたという。


 ■ 構成
高水寺城の最高所に位置する主郭は東西60m×南北120mの規模である。若殿屋敷(二ノ郭)は主郭の東南側に位置し、東西50m×南北100mの規模で、各郭には段状に腰郭を擁している。
姫御殿は主郭の北東に位置し、東西30m×南北60mの規模であり、小郭を擁している。


 ■ 現況
現在、城山公園として整備されており一部改変が著しいものの、各郭とその周辺の堀跡の遺構は残っている。

■ 大手門跡
西側に位置する。
現在整備されている城山公園としての出入口とは別であり、道路としてはほとんど機能していない。
■ 主郭跡
南側より望む。
■ 主郭跡
御殿跡とも称される。
現在は愛宕神社が祀られている。
■ 主郭跡
最高所に位置する。
■ 主郭跡南西側
石垣が設けられているが、後世の改変時のものと思われる。
■ 天王平跡
現在は駐車場となり、蒸気機関車が設置されている。
■ 姫御殿跡入口
天王平跡の駐車場脇より入る。
■ 姫御殿跡
主郭の北東側に位置する。
■ 姫御殿跡土塁
東縁に位置する。
■ 堀切跡
主郭と若殿屋敷を区切る堀切跡である。
画像左側が主郭、右側が若殿屋敷。
■ 若殿屋敷跡入口
看板が設置されている。
■ 若殿屋敷跡
主郭の南東側である。
■ 若殿屋敷跡南側
現在の出入口とは別に虎口跡のような遺構が存在する。
■ 若殿屋敷南側堀跡
急斜面の下に堀跡が位置する。
■ 主郭跡南側
主郭跡南側に位置する。
現在は公園のモニュメントが設置されているが、ほとんどが後世の改変であると思われる。
■ 東側段築跡