■ 沿革
上口内城は天正年間(1573〜92)、葛西氏の重臣である江刺三河守重胤の三男・口内帯刀が築城したといわれる。一説には安倍貞任が牛3頭を生埋めにして鎮護を願って築城したともいわれるが、確証はない。
天正18年(1590)、江刺氏の主家・葛西氏が豊臣秀吉の奥羽仕置により所領没収となった。それに伴い、口内氏の宗家・江刺氏も岩谷堂城を退去し、帯刀の子息である口内帯刀隆朝も口内城を明け渡した。隆朝は翌天正19年(1591)に南部信直に仕え、口内に隣接する和賀郡毒沢村・黒沢村に524石余の知行を得て仕官している。
この奥羽仕置により、旧葛西氏領は豊臣秀吉の家臣である木村伊勢守吉清に与えられた。しかし天正18年(1590)の葛西・大崎一揆により吉清は失脚、木村領は伊達政宗に与えられた。
それに伴い上口内城は伊達氏に属し、瀬上氏が城代となった。
−上口内城の歴代城代−
天正19年(1581) |
〜 |
慶長6年(1601) |
瀬上淡路景純 |
慶長6年(1601) |
〜 |
寛永8年(1631) |
小梁川修理 |
寛永8年(1631) |
〜 |
寛永21年(1644) |
藤田右兵衛宗景 |
寛永21年(1644) |
〜 |
万治2年(1659) |
田手肥前守高実とその養嗣子・卯之助 |
万治2年(1659) |
〜 |
元禄7年(1694) |
古内志摩守義如からその孫・治太夫義長 |
元禄8年(1695) |
〜 |
明治4年(1871) |
中島監物利成 |
元禄8年(1695)に加美郡小野田郷より転封された中島監物利成が2,540石で城主となると、以後明治4年(1871)の廃藩置県まで中島氏が統治した。
■ 構成
口内川北岸の比高約20mの独立丘陵上に位置し、頂部を主郭とする。
本丸の面積は8,000uであり、二ノ丸は本丸の東側から南側にかけて広がっている。本丸には池跡が残り、また本丸の南側には枡形虎口が位置しており、二ノ丸を経て大手門へと続いている。また二ノ丸の北東から西側にかけて堀がめぐらされ、東側には東門が、南西には西門が位置している。
二ノ丸の外側、口内川を渡った南岸には向小路・中小路・四軒小路・袋小路・西小路などの地名が残り、家臣屋敷が配置されていた。
■ 現況
現在、本丸を中心とした郭は良好に残り、各場所に標柱が建てられている。
二ノ丸・家臣屋敷跡は宅地や畑となっており、堀跡を除き、遺構はあまり残っていない。
|
■ 西門跡
二ノ丸西側の門跡。水堀跡に架かる橋が存在し、標柱が建っている。 |
|
■ 口内川
集落内を流れる川。水堀の役目も果たしていたと思われる。 |
|
|
|
|
■ 枡形跡
西門から本丸詰御門跡へ向かうと枡形が設けられている。 |
|
|
|
|
|
■ 本丸梵字池跡
水量は少ないが僅かながら水が残っている。 |
|
|
|
|
|
■ 空堀跡
本丸北側の腰郭外周を空堀が覆っている。 |
|
|
|
|
|
■ 東門跡
二ノ丸東側の門跡。堀跡が明瞭に残っている。 |
|
|